もう一つの西洋式城郭。
龍岡城
所在地
別名
長野県佐久市田口
:桔梗城
築城者
築城年
:松平乗謨
:文久4年/元治元年(1864)


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■三河奥殿藩

 龍岡城は、佐久から八ヶ岳山麓を通って山梨県に至る風光明媚後の幹線沿いに位置する五稜郭です。古くは武田信玄の佐久侵攻の経路ともなったこの地域には、昔から土豪の城が数多く築かれてきましたが、龍岡城に関して言えば、西洋から輸入した築城思想にのっとって砲戦に特化した稜堡式を採用しており、もともとその水堀などは函館五稜郭と同じく星形をしていました。築城者は松平乗謨。松平を名乗る大名は多くありますが、元来は三河奥殿藩の殿様でした。奥殿松平氏が持つ領地の大半は、実のところ佐久にあり、私もその名を知る愛知県岡崎市の奥殿陣屋は、三河の山間地にあるわずかの領地から佐久に遠隔指示を与えるの形ばかりの政庁にすぎなかったのだそうです。
 稜堡式という日本古来のものではない形態の城であることから、幕末の動乱期に臨み、来るべき決戦の時を睨みつつ幕命で築かれたものなのかと思いきや、必ずしもそうではないようです。前述した通り、奥殿藩の基盤は佐久にあったため、この地に新たな城を築くことは、長らく藩の宿願ともなっていたところ、時宜を得られたのがたまたま幕末期のことで、当代の乗謨が開明家の資質を持っていたために、新築時に当時としては先進的な西洋式の築城術を取り入れたに過ぎないのであって、この時期この場所に五稜郭が築かれたのは、あくまで奥殿藩固有の事情によるものに過ぎなかったようです。

■廃城、そして昭和初期の復活

 とは言え、幕末期の築城であったこともまた揺るがぬ事実で、元治元年(1864)の築城開始から約3年で完成に至ったものの、明治5年(1872)の廃藩置県までのわずかの間、龍岡藩庁として使用されたに過ぎませんでした。現在は城地の大半が田口小学校となっていますが、一部に石垣と水堀が存在しており、その鋭角的な形状が、稜堡式の特徴をよく現しています。もっとも、その規模は函館の五稜郭に比べればかなり小さく、普通では上空から見下ろすすべもないため、星形であることが一目のもとにわかるという感じではないのは少し残念なところです。
 築城開始から10年に満たない期間で本来の役割を終えた龍岡城は、明治時代を迎えるや廃城の運命をたどり、城の主だった遺構も失われましたが、昭和の初めにこの地に住まう住民の手で復元され、同時期に国指定の史跡となりました。現在とは史跡指定の要件も異なっていたのでしょうが、そこには地元の熱量のようなものも感じられ、函館五稜郭ほどの知名度はなくとも、土地の人たちの誇りとなっていたことが感じて取れます。

(2019年04月26日 初掲)















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