聖地になった明智光秀の城。
丹波亀山城
所在地
別名
京都府亀岡市荒塚町
:亀岡城
築城者
築城年
:明智光秀
:天正5年(1577)


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■明智光秀の本城

 坂本城に代わる明智光秀本城として、天正6年(1578)頃から築城が開始されたのが、この亀山城です。後年には伊勢の亀山城と紛らわしいという理由で「亀岡城」と改称させられたお城ですが、このページでは築城当時のままの(丹波)亀山城と表記しておきます。
 亀山築城の頃の光秀は、丹波平定の任についていました。光秀は丹波の八上城を本拠地にしていた波多野氏との抗争の中で、人質に差し出していた母親を失ったとされています。彼女はいわば、光秀が波多野氏と交わした約束の担保にされていたのですが、信長によってこの約束を反故にされ、波多野氏側がその報復のために光秀の母を殺害したのでした。このことが、本能寺の変に至る信長と光秀の確執の原因の一つであるとも言われています。
 後、光秀は毛利氏と中国地方で戦線を張る羽柴秀吉の援軍に出るよう信長の命を受けています。兵をまとめて亀山城を出た光秀は、京の街を目指しました。老いの坂を越え、光秀の「敵は本能寺にあり」という檄を聞くまで、腹心の部下を除けば、彼の行動に疑念を抱く者はいなかったと言われています。
 

■持ち主を転々とし、大本教の聖地に

 光秀後の亀山城には、豊臣氏の支配を経て江戸時代に入り、岡部氏が城の整備を完成させると、以後は松平氏や菅沼氏などの譜代大名が入りました。そして明治維新を迎えたのですが、明治の廃城令のときに天守閣が解体され、城の土地は官有地になりました。
 時の亀岡町には亀山城全体を買い取る財力がなく、持ち主の定まらなかった城跡は次第に荒廃していきました。この事態を憂慮した地元有志が土地・建物を買い取りましたが、城内の石などは鉄道敷設のために転用されました。
 その後の大正8年、亀山城址は亀岡出身の大本教教祖・出口王仁三郎の手に渡りました。出口はこのとき、城内に残された石などを使って石垣の整備を行っています。このときの石垣も昭和に入ってから大本教を巡る騒乱の中で破壊されていますが、その修復も行われ、現在見られる亀岡城の石垣となっています。
 

■石垣は語る

 現在の亀岡城址には石垣が存在してはいますが、その大半は大正期以降に再建されたものという事になるわけです。近年になって組み上げられた石垣の一部にも、光秀後の藤堂高虎による天下普請の時に使われたままの部材が用いられており、中には工事の際に使われた目印が刻まれた石も含まれています。
 しかし、光秀時代の遺構が全く残されていないわけではなく、「月宮玉座」付近の石垣の、もっとも土台となっている部分には、築城当時、光秀時代のもの残されています。また、この石垣の上部には光秀手植えと伝えられる大銀杏が立っています。
 ただし、この付近は大本教の聖地になっているため、近づくことができるのは石垣の下あたりまでで、段上には上がれないとのこと。私の訪問時は教団施設の工事の関係で、光秀の石垣の前にたどり着くこともできませんでしたが、普段ならば教団受付で城跡の見学をしたい旨を伝えれば、石垣の見学自体は可能ということです。
 

(2008年03月01日 初掲)















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