口丹波の大規模山城。
丹波八木城
所在地
別名
京都府南丹市八木町八木
:なし
築城者
築城年
:内藤氏
:不明


お城スコープ > お城総覧 > 丹波八木城

■丹波守護代内藤氏

 八木城は、丹波国内でも最大級の規模を誇る山城でした。その広大さは、八上城黒井城と並んで丹波三大城郭の一つに数えられています。この城は、俗に「口丹波」と呼ばれる、丹波国内でも南部に属する地方に築かれていますが、それはすなはち京の都に近いことも意味します。この地域に大規模な山城が築かれたのは、そうした地理的特性からの要請もあったのでしょう。
 城の主である内藤氏は、元々は三管領の一つとして足利幕府内で重きを成した細川京兆家の家臣であり、丹波国内においては守護代として権勢を振るったと考えられています。しかしながら、主筋である細川氏は、歴史ある名族であるがゆえに一門での諍いも多く、内藤氏も否応なしにその争いに巻き込まれていきました。八木城は山城国との国境に近かったために、都のいざこざに巻き込まれやすい宿命にありました。
 国貞の代には折からの主家の混乱に乗じる形で内藤氏も国人領主化していますが、敵対関係に陥った細川晴元からの攻撃を受けています。さらに時期が下ると、八上城に興った波多野氏からの攻撃にも晒されるようになりました。細川家中で三好氏が台頭し、長慶と結ぶようになっても波多野氏に対する劣勢は覆らず、天文22年(1553)には城主・内藤国貞は討ち死にの最期を迎え、ここで一旦内藤氏は滅亡しています。

■キリシタン武将・内藤如安

 同時期には八木城も波多野氏の手に落ちましたが、これは間もなく三好方の松永長頼が奪還しました。謀略を能くした弾正久秀の弟にあたる人物ですが、後に妻に国貞の娘を迎え、名も内藤宗勝に改めています。こうして八木城も形式上は内藤氏の一族の支配に復する形になりましたが、戦乱の国貞時代に比べると、城自体が係争の舞台となることも無くなっていったようです。
 一方、宗勝は永禄8年(1565)の黒井城攻めに際して討ち死にしました。跡を継いだのがキリシタン武将として知られる内藤如安でしたが、如安の頃ともなると、波多野氏はもちろん、三好氏よりも、足利将軍家よりも強大に、織田氏が成長していました。如安は信長と対立した将軍義昭に与しましたが、ついには丹波の攻略に乗り出した明智光秀により、八木城を攻め落とされ、所領を失いました。
 後年にはキリシタン大名である小西行長に仕えましたが、行長が関ヶ原の戦いに敗れて処刑され、さらにはキリシタン禁教令が発令されると、ルソンに追放され、同地で生涯を終えました。
 なお、八木城の廃城時期は今もって不明とされています。

■山上に残る遺構

 ちょっと登城口までのルートガイドがわかりにくいような気もする八木城ですが、ひとたび山を登り始めると踏み跡はしっかりしており、登り易い山城の部類に入ります。問題はこの道がかつての大手道の踏襲したものなのか、登山道として最近になって整備されたものなのかというところです、登城口付近に階段状の平坦地が形成されていますが、ここが屋敷跡なのでしょう。
 しかし、明白に城の遺構だと思われる地形が見られるようになるのは、やはり山頂部周辺です。曲輪は東西が長い梯郭式に配置されており、一部に土塁が残存します。最高所の曲輪の北西に天主台もしくはその祖型、あるいは虎口などと推定される構造が明瞭に残されているのも特徴と言えるでしょう。腰曲輪には、石垣が崩壊したものと思われる大石が散乱していますが、石垣そのものは目に付きません。江戸時代の資料によれば、八木城には野面積みの石垣が存在していたようです。
 規模が大きいとは言っても、気軽に見学できる場所は比較的限られています。遺構については山頂付近を一巡りすれば大方を見て回れます。ビューポイントは限られますが、山頂からの眺めも悪くはなく、一般のハイカーがある程度登っている形跡があるのも、そのためでしょう。

(2010年01月12日 初掲)





















戻る
TOP