梟雄・松永久秀の築城術。
多聞山城
所在地
別名
奈良県奈良市法蓮町
:多聞城 
築城者
築城年
:松永久秀
:永禄3年(1560)


お城スコープ > お城総覧 > 多聞山城

■戦国の怪物

 多聞山城は、戦国乱世が生んだ稀代の梟雄・松永弾正久秀の居城でした。多聞山の名は、信貴山寺の毘沙門天=多聞天にちなむもののようです。
 久秀は、元来は三好長慶の重臣でした。この長慶もまた権謀術数に長けた人物で、自身は管領細川家の筆頭格の重臣でありながら、機会を得ると細川家の内紛に乗じて主君である細川晴元を追っています。そして、半ば実権を失いながらも細川家の支えによって近畿一円に影響力を持っていた足利将軍家を傀儡化しています。これだけならば「三好長慶はなかなかの人物」で終わっていたでしょう。
 久秀の恐るべき本領は、下克上によって畿内に一大勢力を張った長慶の上前をはねてしまった事にあります。長慶の弱体化は有能だった弟たちの死に端を発していると言われていますが、その背後で暗躍し、きっかけを作ったのが久秀であるとする説もあるほどです。その辺りの真偽は分かりませんが、すっかり弱りきった晩年の長慶を久秀が傀儡化していたのは事実で、長慶の死後には三好家の握っていた権力を完全に簒奪。さらに、自分の意のままにならなかった十三代将軍・足利義輝を弑逆し、完全なる傀儡・足利義栄を十四代将軍の座に据えています。
 

■信長と久秀

 しかし、そうやって奪い取った権力の座を巡り、今度は一度は共闘した三好家の有力家臣・三好三人衆との抗争に突入していきます。久秀の居城があった大和一円を舞台にしたこの争いには筒井順慶も加わり、その戦火は東大寺の大仏殿までをも巻き沿いにしました。このとき、炎に巻かれた大仏の首は、無残にも転がり落ちています。今でも東大寺の大仏を見ると、首の部分だけ真新しいのが分かりますが、これは久秀が落とした首を江戸時代になって付け直したものです。
 こうして久秀が大和で戦っている間に、亡き先代将軍の弟・義昭を奉じて上洛してきたのが織田信長でした。破竹の勢いで上洛を果たした織田軍を目の当たりにした久秀は、信長に名物茶器「九十九髪茄子」の茶入れを差し出し、恭順の意を示しました。信長は、義昭の反対があったにもかかわらず久秀を許しています。
 しかし久秀が油断ならない人物である事は重々承知していたらしく、後に安土を訪れた徳川家康に対しては久秀の事を「他の誰もがしたことのない悪事を三つまでもやってのけた者」と紹介しています。三悪とはすなわち、主家乗っ取り、将軍謀殺、大仏炎上の事です。
 

■当時最新鋭の城

 後の元亀3年(1572)、久秀は武田信玄の「上洛」に呼応する形で信長に対する謀反を起こしていますが、信長はこれを許しています。今に伝えられる信長の気性から判断しても異例中の異例とも言える処遇ですが、なぜこのような事になったのかについては、一つ興味深い説を聞いたことがあります。信長は、久秀の持つ築城技術を惜しみ、これを我が物にしようとしていたのではないかというのです。
 久秀が多聞山城に先んじて築城した信貴山城は、日本で最初に天守閣が造営された城です。また、多聞山城で初めて採用された石垣の上に櫓を建築する形式は、後に「多聞櫓」の名で呼ばれるほどメジャーになった、画期的なものでした。そして、これらの築城術はいずれも久秀発案の物で、信長もこれらの新機軸を積極的に自陣営の城に取り入れています。
 天正5年(1577)、久秀は再び信長に対して反旗を翻しました。この時は信長も久秀を許さず、久秀は信貴山城の天守閣もろとも自爆して果てています。信長の夢の城である安土城,/A>の建築は、すでに開始されていました。
 現在の多聞山城址は、東大寺ほど近くの奈良市立若草中学校になっています。世相もあって気やすく探索できるような環境ではありません。そういった事情もあって城そのものに関する記述、写真も少ないですがご容赦を。それにしても、血塗られた人生を歩み、その合間には夜の営みに関する書物まで残した人物の居城跡が、思春期の多感な少年少女たちの過ごす場所になっているとは、時のうつろいは不思議な物です。
 

(2008年03月01日 初掲)





















戻る
TOP