南朝の要所から紀州藩家老の城へ。
田丸城
所在地
別名
三重県度会郡玉城町田丸
:玉丸城
築城者
築城年
:北畠親房
:延元年間(1336〜1340)


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■神宮領の抑え

 三重県の城と言うと、蒲生氏郷の残した高石垣を持つ松阪城や藤堂高虎の伊賀上野城、まがりなりにも櫓が現存する亀山城の印象が強く、正直言って田丸城はノーマークだったのですが、実際に現地を訪ねてみると石垣が良く残り、想像以上に城跡らしさが保たれていました。さらに堀の一部や移築門も残されており、城跡としての保存状態は比較的に良い部類に入るのではないでしょうか。現在残っている遺構は江戸時代の頃に整備されたもので、予想に反して立派な城跡だったのは、多分にここが紀州藩の家老・久野氏六万石の城だったことによると思われます。
 もともとこの城は、後に伊勢に根付く名族の祖・北畠親房によって、南北朝時代に築かれたものでした。親房自身は公家の出身でしたが、建武の新政が不調に終わった時には後醍醐天皇に味方して、伊勢において南朝勢力の拡大を画策し、在地領主の協力を得ながら田丸城を築いたと考えられています。当初は玉丸城と呼ばれ、城主としては愛州氏が入りました。伊勢神宮領を掌握する上で重要な地点に位置していたため、度重なる戦乱の舞台となりました。

■北畠信雄による改築

 南北朝の統一後は、戦国大名化した北畠氏の支城として存続することになりましたが、戦国時代に織田信長の次男・信雄が養子となり北畠の名跡を奪った時には、大河内城に代えて本城とされています。この信雄時代に本丸、二の丸、北の丸が造営され、三層の天守が築かれました。この時の縄張りが現在の城址の基礎となっていますが、天守は天正8年(1580)の火災によって失われ、信雄本人も今度は松ヶ島城へと移っています。
 その後、この地方を支配した蒲生氏や稲葉氏など時々の領主により治められましたが、最終的には前出の久野氏の城となり、明治まで続きました。
 ちなみに信雄の松ヶ島城は蒲生氏郷がこの地を拝領した時に放棄され、現在では畑の中に天守の跡と思しき土盛が残るばかりになっています。松ヶ島城が廃れ田丸城が残った理由を考えるに、南北朝の動乱を睨んで築かれた選地が光ったのだろうかとも思います。もっとも、南北朝期と戦国末から江戸初期のポリティカルパワーバランスは単純に同列で語れるものでもないのですが。

■石垣の名城

 ということで、思っていたより立派だった田丸城址ですが、城跡で特に目をひく遺構はまず石垣で、なかなかの規模を誇っています。また、本丸には天守台が残されています。かつてその上に天守の建っていたことが明瞭に分かり、これぞ天守台という雰囲気です。この他、城址には空堀もあります。
 一方、城山公園から目を転じた玉城町役場の敷地内には、水堀の一部が残されていますが、現地形では城と堀との間には役場の他に玉城中学校などが存在しており、言われなければ城としての一体感を感じにくいかもしれません。城の縄張りの名残は、縮尺の小さな地図や航空写真を利用して、上空から城山周辺を俯瞰した方が追いやすいでしょう。中学校の裏手付近には移築門である富士見門が建っています。一旦城外に移築されたものを再び城跡に復元した門で、このサイトではこうした移築建造物を厳密な意味での現存遺構としては扱っていませんが、それでも田丸城で唯一残された建物には違いありません。
 城山公園はその名の通りの独立丘上に存在しており、なかなか好展望の地です。春には桜が咲き誇るようで、訪問時は桜まつりの準備が進められていました。

(2009年07月05日 初掲)





















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