巽高取雪かと見れば雪ではござらぬ土佐の城。
高取城
所在地
別名
奈良県高市郡高取町高取
:芙蓉城
築城者
築城年
:越智氏
:14世紀


お城スコープ > お城総覧 > 高取城

■三大山城の一

 別の機会に触れたことがありますが、山の多い日本には、三大山城と呼ばれる城があります。美濃(岐阜県)の岩村城、備中(岡山県)の松山城、そしてここ大和高取城です。三大山城はいずれもが近世まで領主の居城として使用されていた城であり、人々が暮らす集落からは比較的距離があったため、松山城の現存天守を筆頭に遺構も良好な状態で保存されていますが、高取城もまた標高584mの高取山頂を中心に数多くの石垣を残しています。在りし日の高取城は、「巽高取雪かと見れば雪ではござらぬ土佐の城」と謳われるほどの壮麗さを備えた城でした。
 高取城の歴史は南北朝時代に始まったものと考えられています。その位置づけは、当時大和南部に勢力を張った越智氏の支城というものでした。やがて世の中が戦乱の時代を迎えると、天嶮の地であった高取城の戦略的重要性も増していきましたが、織田信長により畿内の秩序が取り戻されると、信長から大和を任された筒井順慶により一時廃城とされています。

■大和支配の要所

 順慶が居城としていたのは、大和一国でも北に偏った大和盆地の中の郡山城でしたが、大和国は国土の南に広大な山地を抱える国です。郡山城は大和盆地を支配するのはともかくとして、国の隅々にまで目を行き届かせるには不便な場所に位置していました。そこで再び高取城の存在がクローズアップされることになります。高取城は、かつて後醍醐天皇が潜伏した吉野への道の入り口を押さえるなど、交通の要衝を掌握する上でも重要な意味合いを持っていました。こうして天正年間のうちに再整備が進められた高取城は、筒井氏が伊賀へと転封となり、代わって豊臣秀長が大和の主となってからも国内支配のための拠点の一つに位置づけられ、この豊臣氏時代に近世城郭としての体裁を整えていったと考えられています。
 豊臣一門の大和支配中に高取城を任されていた本多氏は、豊臣の世が徳川の世へと移ろっていく中で主を変え、時代の難局を巧みに泳ぎきったかに思われましたが、三代で断絶。後に入部した植村氏の時に明治維新を迎えました。

■広大な近世山城の跡

 明治の半ばに取り壊された高取城は、大小二棟の天守閣と多くの櫓を持ち、全国に数ある山城の中でも特に大規模なものでした。麓から見上げる高取城の城壁は山上に降り積もる白雪を彷彿とさせたと伝わりますが、現在の城跡に残されているのは、数百年にわたってそれらの建物を支え続けてきた石垣ばかりです。
 天文年間の一向一揆、関ヶ原前夜の松倉重信による攻撃にも耐えた峻険な山城跡の各所には大小さまざまな規模の石垣が残され、往時の高取城の威容がしのばれます。古墳文化の町・明日香村が近いこともあってか石垣には古墳の石材なども使用されており、二の門近くにある猿石などは、実際に飛鳥時代の遺跡から掘り出されてきたものであると考えられています。
 なお、比高でも400mに近い山上の城と言うだけあって、国見櫓跡などの主郭部付近の立ち木のない場所からは好展望が望めますが、麓から本丸まで自分の足で登るのはかなり大変な思いをすることになります。近鉄壺阪山駅から路線バス利用で壺阪寺まで移動すればかなり移動距離が稼げる他、マイカー利用なら本丸直下までダイレクトにアクセスできそうな雰囲気ではありますが、高取城の規模を実感するためにはあえて山麓から登ってみるのも良いでしょう。

(2008年06月21日 初掲)





























戻る
TOP