桜の城と名門武田氏の落日。
高遠城
所在地
別名
長野県伊那市高遠町東高遠
:兜山城
築城者
築城年
:武田信玄
:天文16年(1547)


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■高遠城沿革

 一般には花の名所としてのイメージが強い高遠城は、もともとは天文16(1547)年に武田信玄に命じられた秋山信友と山本勘助によって築かれたと言われています。ただし、それ以前からこの地を支配していながら信玄と戦って敗れた高遠氏の城に手を加えるなり城跡に新たに建築するなりしたものなのか、まったく新たに築城されたものなのかについては、はっきりしていないようです。
 後の武田氏滅亡に際して高遠城は織田氏の部将が治めるところとなりますが、そのわずか3ヵ月後に本能寺の変が勃発、今度は徳川氏がこの地を治め、それ以後はさまざまに城主を変わりながら江戸時代に入っても存続し、ついに明治維新を迎えています。
 

■武門の意地

 この城を語る上で天正10年(1582)の織田軍侵攻戦を避けて通ることは出来ないでしょう。
 このとき武田氏殲滅を目指してやって来た織田軍は、織田氏の御曹司・織田信忠を総大将とする五万の大軍でした。これに対して、高遠城に籠もった兵力は城将・仁科盛信(信玄五男)以下三千。同じ頃、木曽谷は守将の裏切りですでに織田氏の配下にあったため、木曽方面からは織田の別働隊が続々信濃に侵入してきている有様でした。また、駿河の穴山梅雪も徳川家康に寝返っていました。さらには、織田徳川と結んだ北条氏政も甲斐本国を背後から脅かそうとしていたため、盛信の兄で武田氏の事実上の総帥だった武田勝頼は、高遠城に救援部隊を送ることなど思いもよらぬ情勢でした。
 敵軍の真っ只中に孤立した盛信の高遠城は、寡兵ながらも織田軍の猛攻をよく防ぎましたが、衆寡敵せず、最終的には城兵の一人に至るまで悉く討ち死にという壮烈な最期を迎えました。盛信は自刃の際、自らの腸を腹腔から引きずり出すとこれを壁に叩きつけ、そのまま絶命したと伝えられています。
 高遠落城後、甲信国境近くまで出陣して織田軍を迎え撃とうとしていた勝頼は、敵軍と直接干戈を交えることなく本拠地である古府中まで撤退しました。そして、家臣小山田信茂の進言を受けて古府中までも放棄しますが、結局は信茂の裏切りに遭い、帰る城も無いまま天目山中に追い詰められ、一族郎党と切腹して果てています。
 

■桜の名所

 現在の高遠城址公園に植えられた1500本の桜は、「天下第一の桜」と呼ばれています。樹種はタカトオコヒガンザクラで、一般的なソメイヨシノよりもピンク色が濃いのが特徴と言えます。ただし苗木は明治になってから植え始められたもので、城本体に比べれば歴史は浅いようです。見ごろは例年4月中旬頃のよう。
 城址公園には堀に隔てられた各曲輪の削平地が残っている程度で、近世まで運用されていた城としては特筆するほどの遺構はありません。高台の城ですが、冬枯れの季節でもなければ桜木立に遮られて眺望もさほど良くは無く、城跡そのものはかなり地味です。やはり、一般向けには花の時期に訪問した方が良いかもしれません。ただし、お花見シーズンは入園や駐車場の利用にお金を取られるらしく(オフシーズンは無料)、また、近隣に鳴り響いた名所であるため黒山の人だかりでごった返します。さて、花の時期に訪れるべきか、それとも敢えてオフシーズンを狙ってみるか…。
 高遠城は名門・甲斐源氏武田氏が行った事実上の最後の戦いの舞台となった城で、盛信の武勇は武田の最後を飾るに相応しいものであったと現在まで語り継がれ、城址公園にある藤原神社には、現在も盛信が祀られています。高遠城址が桜の名所として知られるようになったのも、あるいは桜と死者の魂を結びつける発想が背景にあったためなのかもしれません。

(2008年03月01日 初掲)





















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