高天神城を制す者は遠江を制す。
高天神城
所在地
別名
静岡県掛川市下土方
:なし
築城者
築城年
:今川氏
:16世紀


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■高天神を制する者

 高天神城は、遠江の西部に位置する鶴扇山に築かれた山城でした。「高天神を制する者は遠江を制する」と言われたお城です。もともとは今川氏によって築かれたものでした。今川氏滅亡後には徳川氏の支配下に置かれていますが、天正2(1574)年には、父・信玄の跡を継いだ武田勝頼によって攻め落とされています。この時から、武田氏による遠江攻略の橋頭堡として修築され、長らく徳川氏の遠江支配に対する楔となり、浜松城の家康を悩ませ続けました。
 この城の主要な建造物は、山の尾根筋に築かれていました。このような様式で築かれた山城の存在はそれほど珍しいものではありませんが、この山は、尾根が四方に張り出し、その尾根によって結ばれる二つのピークをもあわせ持つ複雑な山容を呈していたため、城の縄張りも一種独特のものとなっていました。
 もちろん、形状が特殊と言うだけではなくその防御能力にも特筆すべきものがあり、長篠の大敗で弱体化した武田氏の支配体制化にあっても、反転攻勢に転じた徳川勢の寄せ手を7年間にわたって退けて続けています。
 

■幽閉の石牢

 この城が武田の手に落ちたとき、城内には大河内政局(まさちか)という徳川方武将がいました。城址には、この城が徳川方に復帰するまでの7年間、彼が幽閉されていたと伝えられる石牢跡も残されています。
 この石牢があるのは城の中でも暗く日当たりの悪い場所で、心なしか空気がじめついているようにさえ感じる、陰気であまり愉快ではない場所です。狭い石牢の中に長期間閉じ込められていたために、助け出された直後の政局は歩くことさえままならない状態だったと伝えられています。そのような目にあわされながらも節を屈しなかった彼の忠義は、当時の人から口々に讃えられたと言うことですが、想像するだけでもゾッとするようなエピソードです。
 

■斜陽の兆し

 結論から言えば勝頼の代になって初めて武田の支配するところとなった城ということになるのですが、名将として知られた父信玄ですら落とせなかった城を後に勝頼が落としたことは、彼が高天神城以外の各所にも勢力を拡大していたこととあいまって、勝頼を取り巻く大名に衝撃として伝わったようです。遠江を扼するこの城を奪われた家康はもちろん、織田信長も、上杉謙信に宛てた書状の中に「勝頼は恐るべき武将である」としたためています。誰よりも勝頼自身が、父信玄を超える戦果をあげることが出来て得意の絶頂だったのかもしれません。
 しかし、この勝利で自信をつけた勝頼は、信玄時代から仕えて来た老臣たちの言を次第に軽んじるようになり、自分に同調する年若い武将を重用するようになっていったと言います。そして、こうした家中の軋轢の先に待ち受けていたのが、長篠の大敗でした。信玄は「およそ軍勝、五分をもって上となし、七分を中となし、十分をもって下となす」と言う言葉を残していますが、勝頼の破局が、大勝の驕りの果てにあったものだとしたら皮肉なものです。
 

(2008年03月01日 初掲)















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