譜代が封じられた要衝の城。
高崎城
所在地
別名
群馬県高崎市高松町
:なし
築城者
築城年
:井伊直政
:慶長2年(1597)


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■戦国山城から近世平城へ

 高崎城の築かれた場所には、小田原北条氏が関東の覇権を狙った時期まで、和田城と言う城がありました。北条氏の滅亡と前後し、和田城は廃城となりましたが、徳川家康が関東一円を治めるようになってから数年、豊臣秀吉の死と前後して、新たに高崎城が築かれました。築城主の井伊直政は、家康の信任も厚い譜代の家臣で、古く上野国の鎮めであった箕輪城に代えて、信濃あるいは越後に通じる道を扼する地に、新時代の城を築いたのでした。そのため、関ヶ原の戦い以後に井伊氏が近江国へと転封となった後も高崎城には、譜代大名を中心に、高級幕閣が次々と封じられました。
 一方、隣藩の政庁である前橋城では、親藩である結城秀康系松平氏が代々城主を務めました。秀康の末葉が松平姓に復したため、一度は関東の名流・結城氏が絶えるかに見えましたが、秀康の子の一人が事実上において結城氏を継承したのでした。そしてその一族が、関東に根付いたのは自然な流れだったのでしょう。ともあれ、二つの城の主の格が拮抗していたことに起因して、高崎藩と前橋藩の間にある種の対抗意識が生まれたと言われ、それがつまりは、現在の両都市のライバル関係につながっていると言う話もあるようです。
 やや脱線しましたが、結城松平の系譜が続いた前橋城と、譜代が入れ代わり立ち代わりした高崎城は、その地理的重要性は藩政期を通じて揺らぐことなく、いずれの城も明治維新まで存続しました。

■一部保存される遺構

 高崎城の跡地もまた、官地として使用される宿命にあったようで、時代によって軍の施設になったりもしましたが、とどのつまり現在では、一部が公園化されている以外は、ほぼ市役所などの公共施設の用地に転用されている状況です。それでも、開発による徹底した破壊を免れただけでも運が良かったと見るべきところなのか、移築保存とは言え、乾櫓と門が現存しています。ただし、乾櫓に関しては、乾とは言いながら旧城地の東辺中央付近に位置しており、その名が本来意味する北西からはかなり移動しています。これも、城とは全然別の寺院などに移築されるようなケースより、ずっと良い状態と見るべきなのでしょう。
 この他、土塁と水堀も残っています。web地図などで見ると顕著ですが、城地のすぐ西側を烏川が流れ、これを天然の堀としていたことは想像に難くありません。なお、この他に現地では石垣も目につきますが、どうも、全部が全部もともとあったもののようには思えません。単純保存されていない城跡の難しさです。

(2016年05月15日 初掲)















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