一揆に倒された富樫氏の城。
高尾城
所在地
別名
石川県金沢市高尾町
:なし
築城者
築城年
:富樫氏?
:不明


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■本願寺と加賀守護

 一向宗こと浄土真宗中興の祖・蓮如の活動した15世紀、本願寺は長期低落傾向にありました。本願寺の存続を脅かしたのは、日本の仏教の総本山とも言える巨大寺院・比叡山延暦寺。延暦寺に睨まれた本願寺はたちまちのうちに仏敵の烙印を押され、蓮如自身も畿内における安息の地を失ってしまうような有様でした。このような経緯から、蓮如はもともとなじみのあった北陸地方・越前国吉崎に吉崎御坊を建立し、ここを活動の拠点と定めます。真宗の本拠地となった吉崎には、全国各地から多くの門徒が集まるようになりました。
 着々と数を増やしていった彼ら一向宗徒の動向は、北陸の武士階級も一目を置かざるを得ないものだったようです。もっともその認識は、後の織田信長に見られるような、徹底した敵愾心に裏打ちされたものだったものではなかった節もあります。加賀国守護であった富樫政親は、すでに北陸に一大勢力を築いていた門徒の力を頼みにして、弟ながら敵対していた富樫幸千代との戦いに本願寺の助力を求め、加賀の支配権を手中に収めました。こうした兄弟の争いは、応仁の乱に起因して発生したもので、兄弟はそれぞれ東軍と西軍に分かれて戦っていたのでした。
 

■門徒との不和

 この戦いにおける門徒達の働きには目覚しいものがありました。政親が名実共に加賀の支配者となれたのは、まさしく本願寺の助力によるものだったと言っても過言ではないでしょう。しかし、加賀国主の座に収まった政親は、今度は次第に本願寺の力を警戒するようになっていきます。その猜疑心は本願寺やそれに連なる武士達への圧迫的な政策となって表出し、それは当然に本願寺側の不満を煽り立てていきます。さらに蓮如が北陸を去る頃になると、急進的な一部の門徒が加賀の支配権獲得に向けての動きを加速させていきました。政親と本願寺の相互不信は確実に進行し、長享2年(1488)、室町幕府による近江六角氏征伐(鈎の陣)に政親が参加し、国許が留守になったのを機に、一揆はその動きを活発化させます。
 政親は一揆を鎮圧するため領国に戻り、詰の城であった高尾城に立て篭もったものの、雲霞の如く押し寄せる、四万とも号する一揆勢を前に孤立していきます。頼みにしていた越前からの援軍も到来せず、激しい抵抗の末ついには城を枕に自害して果てることになりました。これが100年続く加賀一向一揆の始まりです。
 一揆というと、江戸時代の農民一揆のイメージが強く喚起されますが、この時の一揆には本願寺に帰依した国人なども参加しており、一概に政親は単純に数を頼んだ農民軍に敗れたとは言えません。また、時の加賀守護が一揆に遭って命を落とすこと自体は未曾有の出来事であったとは言え、政親亡き後の加賀国は完全な無政府状態に陥ったわけではなく、政親に代わっては本願寺に従順な富樫氏国主が立てられ、少なくとも形式上は政親の死後も富樫氏による加賀支配が続けられていたと言われています。しかし結局はそれも長続きせず、歳月を経るに従って加賀国は、名実共に門徒を統べる本願寺によって支配される国となっていき、織田信長の軍門に下るまでこの体制は維持されてました。
 

■消えた城跡と富樫氏居館跡

 富樫氏の平素の居館は、現在の石川郡野々市町・北陸鉄道野々市工大前駅付近にあったとされていますが、高尾城は前述の通り戦時の拠点となる詰の城としての役割を担っていたと考えられています。その所在は金沢市郊外の現高尾地区の石川県教育センター付近だったとされていますが、高尾城の城郭遺構は現在まったくと言っていいほど残されていません。
 実は高度成長期の建設ラッシュのあおりを受け、高尾城址付近は採土場とされてしまい、その時に城の遺構も何もかもが一緒くたにかき混ぜられて持ち去られてしまったのだそうです。守護大名が被支配層によって打ち倒されるという日本史上類を見ない事件の舞台になった城であるにもかかわらず、現在ほとんど省みられることがなくなっているのは、高尾城が実質的に城跡としての体をなしていないことによります。高尾城址に対するこの仕打ちはさすがに今からでは考えられないことであり、時代の差を感じさせられます。
 

(2008年03月01日 初掲)















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