北条早雲の生まれた城。
高越城
所在地
別名
岡山県井原市神代町
:なし
築城者
築城年
:宇都宮貞綱
:13世紀


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■「北条早雲」の素性

 北条早雲と言えば、駿河今川氏の居候から身を起こし、ついには関東地方に一大勢力を築き上げた小田原北条氏の祖として、何より下克上の戦国時代のさきがけとなった人物としてその名を知られています。
 今川家に嫁いでいた妹(あるいは姉)の要請で駿河に下向した早雲こと伊勢新九郎盛時(長氏)は、当主・今川義忠亡き後の今川家中で起こった家督争いを治めて、甥龍王丸(後の今川氏親)を次期当主と定め、興国寺城主となりました。盛時は後に興国寺城を足がかりとして堀越公方を倒し、さらには大森藤頼から小田原城を奪取したことが良く知られていますが、駿河入国以前の来歴については謎の部分が多く、長らく一介の素浪人とされてきました。しかし近年の研究により、その正体は備中高越城主伊勢盛定の子ということでほぼ確定を見たようです。伊勢氏は桓武平氏の流れを汲む名族で、盛定は室町幕府の要職にも就いていました。備中伊勢氏は伊勢氏の庶流ではあったようですが、考えてみれば単なる素浪人の身内が、仮に側室であったとしてもおいそれと今川に嫁ぐことなどできるとは考えにくいところです。相手は「御所(足利氏)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と言われた名門の家なのですから。

■早雲の前半生

 さて、どうやらその素性がわかってきた「北条早雲」なる人物ですが、盛時の前半生に関してはやはり不明な点も多く、まず生年に関する問題が決着を見ていません。ここでは一応永享4年(1432)生まれ説を採ることにすると、三十路を過ぎた寛正5年(1464)に足利義視の近侍となったと考えられています。戦国時代の幕開けとなった応仁の乱はそれから三年後のこと。しかも足利義視はそのキーパーソンの一人だったわけですから、盛時は応仁の乱の核心に近いところにいたと言っても過言ではありません。この経験が、盛時の世界観に大きな影響を与えたような気もします。彼はこの大乱を通じて足利将軍の威信が地に落ちたことを実感し、実力に物を言わせて出世のつるを掴む時代が到来したことを確信したのでしょう。
 この時期の盛時は、活動の中心を中央政界に移しており、なおかつすでに今川家との接点を持ち始めているため、自領であった荏原庄との接点が少なくなりつつあるようにも見えますが、高越城のある井原市が作成・配布している資料によれば、同時期にも荏原庄の寺院を改修した記録が残っているようです。最終的に高越城を離れることになったのは興国寺城主となった頃なのでしょうか。

■城の履歴

 高越城は、鎌倉時代末に幕府に命じられた宇都宮貞綱が蒙古襲来の時期に備えて築いた城であると考えられています。主である伊勢氏の一族の動向ですらも謎が多い以上、高越城についても不明点が多く、廃城時期などは詳らかではありません。もともと旧山陽道を眼下に見下ろす形で築かれた城だったために戦略的価値には相応のものがあり、三村氏をはじめとする有力国人間が争い、尼子氏、大内氏、毛利氏、さらには織田氏といった大名間の係争地となった戦国備中の歴史を考えれば、時々の領主が少しずつ手を入れながら後年まで管理していたような気もします。現地の解説板にも城の歴史に関する記述がほとんどないのは、不明点が多いからなのでしょう。
 城跡のある標高172mの高越山は里山のような雰囲気で、山頂までの道のりは歩きやすいものとなっています。自動車による登山ルートも確保され、山頂付近の広場も含めて奇麗に整備されている雰囲気ですが、城郭時代の様子を推し量る材料は、残念ながらそれほど多くありません。一応、広場はかつての曲輪跡・削平地を基本にしているようです。
 井原市荏原地区は「北条早雲のふるさと」として町おこしを展開しているのか、最寄り駅であるその名も「早雲の里荏原」駅前には早雲の彫像も設置されています。この情熱が早雲と高越城の研究を大きく前進させる日が来るかもしれません。

(2008年05月01日 初掲)





















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