天下人親子の相克を思う城。
高田城
所在地
別名
新潟県上越市本城町
:鮫ヶ城、高陽城
築城者
築城年
:松平忠輝
:慶長19年(1614)


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■親子不和

 高田城は、徳川家康の六男・松平忠輝のために築かれた城でした。
 戦国の武将らしく、多くの子供を残した家康でしたが、その子の全てとの関係が良好だったわけではなく、よく知られる結城秀康と並んで、忠輝との仲もうまくは行っていなかったようです。この二人に共通する点としては、母親の身分が低かったことが挙げられ、そこを家康が嫌ったという説が一般的です。ちなみに、長男・信康の母で正室であった築山殿は、言わずと知れた今川義元の親戚筋であり、二代将軍秀忠の母・西郷氏は三河の名族の娘でした。
 秀康・忠輝に存在するもう一つの共通項は、当時卑しい物と考えられていた双子として生まれたという俗説が残されていることでしょうか。また、幼少期の忠輝の容貌が醜かった、あるいは築山殿事件で切腹を命じた嫡男・信康に似ていたことを家康が嫌ったらしい逸話も残されています。
 とは言えそこは天下人の御曹司。しかも忠輝の場合、正室である五郎八姫の父が、外様大名の雄である伊達政宗であったため、むしろその栄達は早かったと言うことができるでしょう。二十歳を前にした慶長15年(1610)には、越後高田に封じられ、その表高は七十五万石を数えるに至りました。勢いその象徴たる居城・高田城は、天下普請によって築かれる壮大な城となりました。特に岳父である政宗は、城の縄張りに始まり、工事全体を監督する役割を買って出、娘婿の居城築城のために注力したと言われています。本丸を中心にした輪郭式平城として完成した高田城は、石垣を持たず土塁によって代えられ、また天守の変わりに三階櫓が建造されたと伝えられています。城が完成を見たのは慶長19年(1614)のことでした。

■忠輝の蹉跌と左遷の城

 しかし、忠輝が高田城の主でいられたのは、わずかに2年の間だけでした。その2年の間には豊臣氏の滅亡があり、実父・家康の死がありました。忠輝は家康の今際にも面会を許されなかったと伝えられていますが、兄・秀忠が幕政の舵取りを完全に掌握してからが、彼にとって本当の試練となりました。すなはち、大阪役の際の不行状を責められ、改易・配流に追い込まれたのでした。これまた秀康の例ではありませんが、忠輝も反骨心の強い人柄だったらしく、これに加えて七十余万石の大身だったこと、さらにその後見人として同じく外様の大大名だった政宗が立っていたことが、将軍への集権を模索する秀忠に警戒されたのだとも言われています。幸か不幸か忠輝は、92歳と言う当時としては非常な長命を保ち、その多くを配流地で過ごしました。
 ともあれ、忠輝去りし後の高田藩は、当地の自然環境の厳しさゆえに、単純な数字として現れてくるほどには豊かではないという裏事情も相まって、その大藩としての位置付けとは裏腹に、左遷人事の行き着く先に位置づけられるような形になり、統治期間の短い大名が入れ替わり立ち代りするするようになります。酒井氏、松平氏と変わった後、天領となり、戸田氏、松平氏、榊原氏と入れ替わって明治に至りました。
 幾たびかの地震・火災に見舞われた城ですが、時代が下ると初代藩主ほどの大大名が封じられなかったこともあり、失われた建造物はそのまま放置されるか、少しずつ規模を縮小する形で存続し、明治時代に破却されました。

■再建建造物・三階櫓と極楽橋

 現在の高田城は、例によって高田公園として整備されています。野球場などの近代的施設が設置された区画もありますが、水堀によって囲まれた本丸跡には、三重櫓が再建されています。不思議なもので、写真で見るとどの写真にもミニチュアチックに写っているこの建造物ですが、現地で見るとさすがにいっぱしの城郭建築の顔をしています。実物を見る限り、柄の大きさに比して造作が細かいのが仇になっているのかもしれません。
 全般に各種公共施設の存在によって純粋な城地が窮屈な印象を拭えず、明治時代に城跡を使っていた陸軍第十三師団が施した土木工事のため、城跡の遺構は少なからず破壊されてもいるようなのが城跡としてはマイナス材料に働いてしまいますが、近年の復元事業によって、前述の三階櫓のほかに二の丸と本丸を結ぶ木橋・極楽橋などが復元されています。

(2013年03月03日 初掲)





















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