古代日本の果てに築かれた城。
多賀城
所在地
別名
宮城県多賀城市市川
:なし
築城者
築城年
:大野東人?
:養老8年/神亀元年(724)


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■ヤマトとエミシ

 古代の東北は、エミシの支配する地で、大和朝廷の力の及ばないところでした。特に藤原氏の台頭と前後する時期から両者の関係は徐々に悪化して行ったものと見られています。後に武家の頭領が就任する役職としての性格を強めていった征夷大将軍も、もとはこのエミシを討伐する軍を率いる司令官のことを意味していました。本来的な意味での征夷大将軍としては、坂上田村麻呂が著名でしょう。東北には、この田村麻呂の後裔を自称する田村氏と言う一族もおり、伊達政宗との縁組で知られています。それほどに、田村麻呂が東北で成し遂げた功績は偉大なものであって、彼が征夷大将軍の任にあった間に、朝廷による征夷事業は大きく前進しました。なお、古代の終わりから中世の初めに見られたまつろわぬ民としての蝦夷(エミシ)は、近世以前の北海道土着民を意味する蝦夷(えぞ)とは全く別のものです。
 陸奥国南部は、ヤマトの影響力が及ぶ最果ての地ではありました。多賀城もヤマトによって築かれたもので、現在まで残る「宮城」と言う地名は、一説に「宮(朝廷)の城」こと多賀城に由来するとも言われています。国府多賀城のあった宮城郡の名が、そのまま現在の県名に受け継がれていったわけです。ともあれ、それほどに、多賀城のこの地にある意義は大きかったと言えます。要するに多賀城は、エミシ勢力に対する防波堤としての性格が強いものでした。
 実際、神亀元年(724)に築かれたと推定される多賀城は、前述の田村麻呂の登場までに、エミシの勢力に押し込まれ、焼亡したこともあります。その実態は、「城」とついてはいますが、後世の城郭のような物々しい軍事施設と言うより、ある程度の防備を施した、ヤマト系の政庁といった所が正確な施設だったようです。現在はJR国府多賀城駅の北方に位置する微高地に、発掘調査を経て簡易復元された石段や建物基礎、土塁などが存在していますが、平安時代の中葉には役目を終えていたと考えられるため、古代城郭の域を出るものではありません。

■京を去ること一千五百里

 歴史的遺物としての説得力は、多賀城の南入口付近に残されている多賀城碑こと壷の碑(つぼのいしぶみ)の方が勝るかもしれません。異説はあるものの、この詳細不明の石碑は、江戸時代になると歌枕として名高い壺の碑と同一視されるようになっていました。奈良時代に建立されたものと見られ、ただでさえ摩耗しているのに加え、お堂で囲われているため、碑文を読み取るのは容易ではありませんが、「京を去ること一千五百里 蝦夷国界を去ること一百廿里」と記されています。なお、多賀城から線路を挟んで反対側にある東北歴史博物館には多賀城碑のレプリカが展示されており、碑文に関する詳細はそちらで解説が加えられています。全文は以下の通り。
多賀城
去京一千五百里
去蝦夷国界一百二十里
去常陸国界四百十二里
去下野国界二百七十四里
去靺鞨国界三千里

此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守将
軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所置
也天平寶字六年歳次壬寅参議東海東山
節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守
将軍藤原恵美朝臣朝狩修造也
天平寶字六年十二月一日

 最後の行、「藤原恵美朝臣朝狩」(ふじわらのあさかり)は人名ですが、狩の字は実際の碑文に刻まれているのとは別の字をあてて表記しています。
 漢文風ながらも本当の漢文とは文法が異なるようで、意味を取るのは難しくありません。信憑性のほどは何とも言いかねますが、いつだれが築いて修築したかが刻まれています。距離感は明らかにいい加減ですが、古代日本の最果てをを示す遺物であったと思うと、非常に感慨深いものがあります。天平宝字6年は、西暦にして762年のことでした。

(2015年06月16日 初掲)





















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