筑前を睨む大友氏の属城。
立花山城
所在地
別名
福岡県糟屋郡新宮町大字立花口
:立花城
築城者
築城年
:大友貞載
:元徳2年(1330)


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■筑前の騒乱と立花山城

 戦国の九州北部に勢力を誇った大友氏が、その本拠としたのは豊後国の府内館でした。しかし、筑前国や筑後国に睨みを利かせるには西に寄り過ぎている恨みがあり、実際に戦国築州の国情は、なかなか安定を見ませんでした。特に旧主である大内氏を追って、周防国・長門国の支配体制を確立した毛利氏の圧力が九州にまで加わるようになってくると、筑前筑後の領主の中からも、大友氏を離反するものが相次ぐようになり、大友氏はそれらの征伐のために度々兵を起こしています。
 それが、とにもかくにも小康を得るようになったのは、大友の重臣・立花道雪こと戸次鑑連が、古くからこの地域の鎮めとなっていた立花山城の主に任じられてからのことでした。

■道雪の立花山城攻め

 立花山城はもともと、大友氏の一門であった大友貞載によって築かれたと考えられています。貞載の系譜は、この地の名をもって、立花氏を名乗るようになりました。
 大友宗家の遠縁であるだけに、立花氏は「西大友」とも呼ばれ、代々の当主は宗家による筑前支配の要たる立花山城の主を歴任しましたが、7代当主・鑑載は、時の宗家・大友宗麟に対し、二度の謀反を起こしています。一度は許されたものの、毛利元就の調略によって、永禄11年(1568)に再度反旗を翻しました。この時、度重なる筑前の騒乱を鎮めるため、この地に進出してきた道雪は、立花山城を攻囲し、数ヶ月に及ぶ戦闘の末にこれを落しました。もはや鑑載に延命の望みは残されておらず、落城時に自害したとも、落城後に処刑されたとも言われています。
 大友宗家の一門である名族・立花氏は、これをもって断絶したかけましたが、毛利氏の脅威がひとまず九州北部から遠ざかった元亀2年(1571)に、筑前国を舞台にした一連の戦いの功に報いる形で、道雪は立花氏の名跡を継ぐと共に、立花山城の城主を任されるに至りました。その後、城と家督は、道雪の娘である訐藺紊魴个董¬写擦箸覆辰申〔个房け継がれました。
 宗茂の頃になると、大友氏は島津氏の勢いを前にして劣勢に立たされるようになっていました。天正14年(1586)、怒涛の如く大友領に殺到した島津軍を前に、宗茂の実父である高橋紹運は岩屋城に玉砕、ついには立花山城も岩屋城攻めの余勢を駆った島津軍の攻勢にさらされましたが、よくこれを防ぎ、豊臣秀吉による島津征伐軍の到来まで持ちこたえました。
 戦後、宗茂は柳川城へ移り、筑前には小早川隆景が入りました。隆景は新たな居城として名島城を築き、立花山城はその一支城となりましたが、関ヶ原の戦いを経て黒田氏が筑前の統治者となった時に、廃城となりました。

■ハイキングコース立花山

 城跡のある立花山は、福岡市近郊ではメジャーなハイキングコースとなっているようです。道雪の菩提寺である梅岳寺を間近に見ながら、登城口と言うか登山口も容易に見つけることが出来ます。もっとも、山頂を目指すその道は、往時の山城に付けられた登城路というよりは、やはりハイキングコースの趣が強く、後年に敷設されたものなのかもしれません。道中、お城目当てには見えない、純粋なハイカーとも、かなりの数すれ違いました。ただし、登山道を脇道にそれると、井戸跡のような、明確な城郭遺構も存在するにはしています。
 この山の頂上付近が、立花山城の主郭部だったのだとは思いますが、山頂周りにはこれと言う遺構もありません。どこからが近年に施された土木工事の痕跡なのか、見分けることが困難なのに加え、城跡としての歴史を伝える解説板もどこかそっけなく、縄張り図は備えられていない状態です。登山道が山頂の平坦部に突き出るあたりが、虎口のように見えなくもありませんが…。
 ただ、眺めのよさだけは折り紙つきで、福岡の街、海の中道、志賀島と言ったところは一望の下に出来る山頂となっています。

(2012年04月02日 初掲)





















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