細川幽斎と「古今伝授」の城。
丹後田辺城
所在地
別名
京都府舞鶴市南田辺
:舞鶴城
築城者
築城年
:細川藤孝
:天正6年(1578)


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■将軍の家臣

 田辺城は、織田信長に仕えた文化人大名・細川幽斎藤孝により、天正6年(1578)に築かれた城です。この城は、丹後平定戦の功からこの地に所領を与えられた藤孝が、本格的な領国経営に乗り出すにあたって築かせたものです。「舞鶴城」の名で呼ばれる事も多いですが、城という建物が飛翔する鳥のイメージに例えられやすい上、鶴が優美な鳥の代表格であるため全国にこの異名を持つ城がかなり多く、管理上の都合からここでは田辺城で統一します。
 藤孝はもともと、足利義輝に仕える幕臣でした。藤孝と言う名も当時義藤と名乗っていた十三代将軍足利義輝からの偏諱を受けたもので、主従の関係は非常に良好だったと言って良いでしょう。それだけに、義輝が松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)によって弑逆されると(永禄の変)、彼らによって担ぎ出された傀儡将軍十四代義栄に仕えるをよしとせず、その頃は出家していた足利義昭を連れ出し、再起を期して都から逃がしています。この後義昭は越前の朝倉氏などを頼ることになりますが、同時期に藤孝は明智光秀との接点を持ったと考えられています。以降、本能寺の変によって互いの道が分かたれるまで、二人は公私共に深く結びついていきます。

■藤孝と光秀

 一方、義昭は織田信長に擁立されて足利第十五代将軍の座に就くことになりますが、両者の仲は急速に冷え切っていきます。そして元亀4年(1573年)、義昭と信長の対立が決定的になると、幕臣でありながら信長の配下としても働いてきた藤孝は、その仕える主君を信長一人に定めました。よく似た境遇にあった光秀も、己が主とするは義昭ではなく信長だと見定めており、二人は以降も信長麾下として時に共闘しながら、功を重ねていく事になります。天正6年(1578年)には藤孝嫡男・忠興と光秀の娘・玉(ガラシャ)の婚礼がなり、細川家と明智家の結びつきはいよいよ強まっています。田辺城が築かれたのはちょうどこのような時期で、藤孝は光秀の助力も得ながら丹後の守護であった一色氏を討伐することに成功していました。当初一色氏の居城であった宮津城に入った藤孝は、これに代わる城として田辺城を築いたのでした。
 そして天正10年(1582年)6月。ついに本能寺の変が勃発します。この時光秀が最も頼みにしていたのが、他ならぬ藤孝であったと言われていますが、藤孝は自らが隠居する事で、年来の友ともいえる人であった光秀と袂を分かっています。この時期は忠興夫婦にとっても苦しい時期で、玉は「逆臣の娘」のほとぼりが冷めるまでの間を幽閉状態で過ごしました。

■「古今伝授」

 その玉が、史上にその名を残すきっかけとなったのが、関ヶ原の戦いでした。石田三成が諸大名の妻子を人質に取ろうとすると、細川屋敷に西軍の兵が殺到しました。この時彼女は、人質となるよりも死を選んでいます。当時すでにキリシタンに改宗していた彼女は、その教義ゆえに自殺する事ができなかったため、傍らの人に胸をつかせたと言われています。
 このような経緯もあり、細川家は到底西軍に味方できようはずもありませんでした。忠興の主力は徳川家康の会津征伐に付き従っていたので田辺城にはわずかの手勢しか残されていませんでしたが、それでも幽斎は押し寄せる一万人規模の西軍を相手に城へ篭っています。戦いは2ヶ月近くも続きましたが、いよいよ敗色濃厚となった時、文化人幽斎の才と、彼が所有していた秘伝の書「古今伝授」が失われる事を惜しんだ後陽成天皇の勅命により、田辺城を巡る攻防は終戦を迎えました。
 現在の田辺城には門や塀、櫓などが復元されていかにも城郭らしい佇まいを見せていますが、堅牢な城の姿は想像しがたいものがあります。もしかすると「古今伝授」は、単なる武人としてだけではなく文化や伝統にも造詣の深かった知識人大名幽斎の、他人には決して真似できない秘策中の秘策だったのかもしれません。
 やがて関ヶ原の戦いで功を立てた細川氏は、豊前小倉に加増転封となり、田辺城には京極氏や牧野氏などが入りました。

(2008年04月08日 初掲)





















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