旅行けば、城跡に茶畑。
諏訪原城
所在地
別名
静岡県島田市菊川
:牧野城
築城者
築城年
:武田信玄
:元亀4年/天正元年(1573)


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■意外に掘り出し物?

 諏訪原城はもともと、武田信玄が遠江侵攻の足がかりとする目的から、馬場信房に命じて作らせた城でした。信房は武田氏における城郭建築のテクノクラートであり、征服した土地のあちこちに城を建設しています。諏訪原城もそうした城のうちの一つで、甲州流の築城技術が随所に用いられた山城だったと考えられています。
 現在まで遺構として残っているのは、堀とかつて曲輪だった削平地などです。天然の地形も存分に利用したであろう堀はかなり深いもので、山岳城砦の特徴を良く表したものといえるでしょう。「お城といえば天守閣」という人向きではありませんが、縄張りをじっくり観察するのが好きなタイプの人には、意外と見応えのある城です。
 いろいろと呼び名の変遷があった城ですが、諏訪原と言う名前は、武田軍の守護神であった諏訪大明神から取ったものであると伝えられています。
 

■静岡だから茶畑

 曲輪跡はかなり広い平地であるため、今では一部が茶畑として利用されています。下草に覆われた石垣跡のようなものもありましたが、おそらくは以前に茶畑用につくられたものでしょう。城跡が茶畑に転用され、その茶畑の一部は放棄されてしまっているようです。
 ものすごく山奥と言うわけではありませんが、周辺は台地となっているためにこれまで市街地化を免れ、徹底的な開発も受けず、せいぜい茶畑として利用されるに留まったのでしょう。しかし結構気になっているのですが、この茶畑はいつ頃からあったものなのでしょうか。まさか廃城後間もなくということはないでしょうが…。
 

■牧野城主・今川氏真

 後年、牧野城と改称されたこの城に、一人の新しい城主がやってきます。彼の名は、今川氏真。かつては駿遠三の太守だった人物です。氏真は、桶狭間で織田信長によって父義元が討たれてしばらくすると、三河で今川配下から独立した徳川家康と、甲斐の武田信玄に挟撃される形で、所領である駿河を追われましたが、最終的には家康から、「武田を駿河から追い出した暁には、氏真を駿河国主の座に復帰させる」という条件を引き出し、講和に応じていました。
 氏真が牧野城主となった時期は、まだ駿河は武田氏によって支配されていました。家康には、仮にも旧主筋にあたる人物との間でかわした約束を履行しようという思いと、駿河侵攻の旗頭として氏真を利用する意図があったのでしょう。
 しかし氏真は、間もなく牧野城を去ります。氏真があまりにも無能だったために家康によって解任されたのだという説もありますし、氏真が自発的に辞去したという説もあります。個人的には、真実はその中間にあったような気がしますが、今川氏真という戦国武将としては少々風変わりな人物が、「戦国武将」として最後の仕事を果たした場所が、牧野城(諏訪原城)だった、というわけです。全く合理的ではないのは承知の上で、個人的には「城跡に茶畑」という一風変わった光景が、氏真のイメージとダブってしまいます。
 

(2008年03月01日 初掲)















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