大御所家康の隠居城。
駿府城
所在地
別名
静岡県静岡市葵区駿府公園
:なし
築城者
築城年
:徳川家康
:天正13年(1585)


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■駿河の名門・今川氏

 この場所にはもともと、駿遠の太守だった今川氏の居館があったと言われています。今のところこれを裏付ける決定的な証拠はありませんが、状況的にはそう考えるのが妥当、といったところでしょうか。
 守護大名から戦国大名へといち早く転身を遂げた今川氏は、一般に言われているほど文弱な大名ではありませんでしたが、名門の血筋であるだけに風雅を愛する心も抜きん出ていました。足利将軍家に近い家であったために将軍の東国下向を受け入れた歴史もあり、さしずめ「今川御所」のような華やかさもあわせ持った建物だったのでしょう。いわゆる城塞的な、無骨な建物を居館にしていたわけではなかったようです。旧今川館の実態はむしろ、平時の執政所のようなものだったと考えられています。
 その今川氏が武田氏に追われた後には、武田氏の駿河経営の拠点として城が築かれました。やがて武田氏が滅亡すると、この城は武田家中において駿河を治めていた穴山氏と共に家康の支配下に置かれることとなりますが、秀吉の全国統一が完成すると、家康は関東に転封されてこの城を手放しています。
 

■家康の隠居城に

 やがて家康が天下を掌握するに至り、今川館跡が家康の隠居地に選ばれ、この時に今川氏時代の遺構が本格的に破壊されたと考えられています。
 しかし隠居とは言うものの実際には、家康は現役の将軍であり息子である秀忠に背後から指示を与え続けていました。言うなれば家康は闇将軍だったのですが、闇将軍の城だけあり、駿府城の改修は諸大名を動員した天下普請として行なわれました。駿府城は小型の江戸城とでも呼ぶべき壮麗な城であったと伝えられていますが、家康の死後二十年弱で火災に見舞われ、ほとんどの建物は焼失しました。
 もともとが家康の隠居城であり、主がすでにこの世に無くなった以上、駿府城が完全な形で再建されることはありませんでした。そして、それ以降も、駿府城の規模は年を追うごとに縮小していったと言うことです。
 現在、堀と石垣で囲まれた敷地の中は城址公園として整備されています。
 

■家康と駿府

 家康は8歳から19歳までの11年間を、人質として駿府で過ごしています。この頃今川義元は、家康の教育係として彼の軍師を務めるほどの軍略家であった太原雪斎をつけています。義元がこの人物をまだ竹千代といった家康の教育係に選んだのは、あるいは竹千代を将来今川の一部将として働かせる目的もあったのかもしれませんが、経緯はともあれこれは得難い幸運だったと言えるでしょう。
 月並みな言い方ですが、家康は人生で最も多感な時期をすごした駿府時代に、師である太原雪斎、正妻築山殿など、後の家康の人生に大きな影響を与えた人々と出会っています。
 家康はこの後も、生涯に幾度か駿府の地とかかわりをもっていますが、その晩年を駿府の地で過ごしたのは偶然だったのでしょうか。それとも必然だったのでしょうか。確かに駿府の地は江戸から遠からず近からず、「院政」を敷くのに有利な地理的条件を備えていたことは間違いないでしょうが、やはりこの地は家康にとって忘れられない思い出の残る第二のふるさとだったのではないかと思います。
 

(2008年03月01日 初掲)















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