登り石垣の残る海の要衝の城。
洲本城
所在地
別名
兵庫県洲本市小路谷
:三熊城
築城者
築城年
:安宅治興
:大永6年(1526)


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■安宅氏と洲本城

 洲本城は、安宅治興によって築かれました。
 治興の養子となったのが三好長慶の弟にあたる安宅冬康です。安宅氏は、三好氏の重臣で、安宅氏に属していた淡路水軍をより強力に掌握するために、長慶が実弟にその家督を掌握させたものだと言われています。三好家中における阿波水軍の帰属がどうあれ、安宅氏が三好家中において重きをなしたことは想像に難くなく、淡路島に築かれた洲本城もまた、水軍の将の城たるにふさわしい海の要地に築かれていたと言えるでしょう。
 細川氏の重臣として立ち、ついには主を放逐して近畿一円に勢力を誇った三好氏ですが、元来は阿波を勢力基盤とする大名でした。もともと淡路島は、一島で淡路国を成していましたが、安宅氏が三好氏に属していたことからすれば、畿内よりは四国に近かったと言うことになるのでしょうか。
 しかし、三好氏の家中は内紛が絶えず、織田氏の勢力には抗しきれませんでした。洲本城も、天正9年(1581)には、羽柴秀吉を主将とする征討軍によって落とされました。タイミング的には、四国征伐の露払いとなる戦だったのでしょう。現地の解説板によれば、当時の洲本城は中世山城だったため、鉄砲により武装した織田軍に抗しきれなかったかのように書かれていますが、おそらくそうではなかったのではないかと思われます。鉛玉を防ぐだけであれば、戦国山城の土塁であっても、十分すぎるほどの防御力を備えていたはずです。城主は、冬康の息子である清康に代がわりしており、表向き織田氏に従属していた清康は、毛利氏への接近を図っていたようですが、ともあれ、四国方面では日増しに長宗我部氏からの圧迫が強まり、頼みの綱の毛利氏も、木津川口の戦いで織田水軍に敗れて以来、この海域の制海権を失っていました。援兵の期待できない中、名実ともに天下人となろうとしていた信長を相手に、戦わずして屈したというのが実際のところと思われます。

■登り石垣

 戦後、城は仙石秀久の治めるところとなりますが、秀久は九州征伐での不行状がもとで追放され、その後は脇坂安治が継ぎました。この時期、国内の城では珍しい登り石垣が築かれ、これが現在まで残されています。登り石垣とは、主に朝鮮半島の倭城に見られる形態の石垣のことで、朝鮮役に参加した大名がその技法を持ち帰り、一部の城で再現しています。通常の山城・平山城に見られる石垣が、山の頂上部や山腹に作られた削平地形の周囲を巻くように築かれるのに対し、登り石垣はその名の通り、斜面を登下降する向きに築造されています。求められた機能は、山上の詰め城部分と山麓の居館の間に敵が侵入し、双方の連携が遮断されることを防ぐことであったと言われています。
 洲本城の登り石垣は、登城路から茂み越しに遠望する程度の比較的不明瞭な残存状態ではありますが、国内の名のある城では伊予松山城彦根城に見られる程度で数が少なく、洲本城が国史跡の指定を受けているのは、おそらくこの登り石垣の存在が大きいのだろうと思われます。

■衰退と復興

 さて、江戸時代初頭になると、池田忠雄が淡路に所領を与えられましたが、池田氏の本拠である姫路城からの統治を前提としていたためか、淡路の城は播磨に近い岩屋に移されました。しかしさらに後年、淡路一国が阿波蜂須賀氏の所領となってからは、再度洲本城が復興されることになりました。淡路島という一つの完結した領域を統治する上で、洲本はちょうど島の中央付近に位置しており、都合が良かったのでしょう。今日山麓部で見られる見られる主だった遺構は、この時期に築かれたもののようです。
 ところで、洲本城の写真と言うと、城跡に建つ天守閣風の建造物が使われることが多いのですが、これは実際のところ模擬天守とも言い難い、城郭建築風の外観を備えた展望台に過ぎないものです。それも現在では、通常は上層に上がれないような処置が施されており、単なる飾りみたいな状態になっています。一応、この種の建造物としては最初期の物なので、そういう観点からは歴史的価値のあるものと言えそうです。
 ただ正当な城郭建築としての価値で言えば、石垣の残存状態や規模の大きさと比べて、蛇足みたいなものなのかもしれません。

(2016年11月11日 初掲)





















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