明智光秀の山城。
周山城
所在地
別名
京都府京都市右京区京北周山町
:なし
築城者
築城年
:明智光秀
:天正8年(1580)


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■京の深山にある城

 一般的な知名度は高くないものの、「周山城」の名はお城マニアの間では比較的良く知られており、また高く評価もされていました。戦国期の山城の様子を良くとどめているとして、知る人ぞ知る城です。京都駅からJRの路線バスその名も「周山行き」に乗り、1時間半ほども揺られた後にたどり着く京都市右京区周山地区に、この城はありました。
 現在でも京都市街から車で長征をしなければならないこの城は、中世時代の都人からは、単に都の山奥という表現には収まらない、最果ての地と認識されていたのかもしれません。そのため周山城について残された史料はそれほど多くなく、歴史家の間においてさえ最近までそれほど注目されることがありませんでした。
 こんな辺鄙な場所に、山城としてはかなり大規模な部類に入る城を築いたのは、誰あろう明智光秀その人です。主君・信長の命により、天正7年(1579)に丹波地方を平定した光秀は、丹波支配の拠点として、そして自らの居城として亀山城を築くと共に、丹波国内の要所に自分が手足と頼む武将を配置しました。周山城もそうした拠点のひとつだったと言われ、主に若狭から京へと侵入しようとする敵に備えたものだったと考えられています。周山城には明智光忠が入れられたと言われていますが、はっきりしません。
 

■周山城をめぐるエピソード

 城をめぐる研究調査が未だ道半ばであるために、霞をつかむようにはっきりしない逸話の多い周山城ですが、その種の伝説の中でひときわにミステリアスなのがその地名をめぐる起源説でしょうか。周山という地名の起こり自体が定かではないのですが、この地をそう名づけたのが光秀本人であり、信長を殷の紂王に、自身は紂王を討った周の武王に見立てて命名を行ったという伝説があります。もちろん、後年勃発した本能寺の変を受けて生まれた話なのでしょう。ちなみに信長の岐阜城も周王朝の故事に倣って名づけられた地名であり、そのことを思い合わせると光秀による周山命名はいかにも作為的に創出された逸話だったような気がして来ます。
 周山の名づけに関する伝説は陰謀の臭いが漂う(しかも眉に唾して聞く類の)やや生臭いエピソードではありますが、当時のことを伝える史料によれば、光秀はこの城に津田宗久を招いて月見を楽しんだこともあるとされており、山上の城郭とは言え武骨なだけではない風雅さも持ち合わせていたのかもしれません。
 

■未整備の史跡

 日本史のキーパーソンにゆかりがあるにしては謎めいた部分の多い周山城ですが、現地を訪ねてみると、まず城の位置の分かりにくさに戸惑いました。登山口は京北農協前バス停付近なのですが、唐突に「周山城址」の解説板があるだけで、道しるべはまるで目立ちません。
 それでも山の方へ進んでいくと、ようやく「京北十景 周山城」の標札が。その先は林道とも杣道とも付かぬ道を辿りながら稜線上を目指します。おそらくこのルートは、城の大手道などの名残ではないでしょう。このあたりの山には高級木材として知られる北山杉の直線的な人工林が形成されており、周山城がある城山もその例に漏れません。登山道は杉木立の中を延び、下草や藪もないのでかなり快適な山歩きではあるのですが、急斜面に平行する狭路区間があったり、かなり急勾配の斜面を這うようにして登ったりする箇所があったり、あまりハイキング向きに整備されている雰囲気ではありません。山に慣れた林業関係者の作業路を、城の見学者のために流用している気配があります。産業ベースで見るなら、城跡を史跡として観光資源にするよりも、ブランド木材の産地にする方がうまいやり方なのかもしれません。日ごろは城跡の通俗化に対して眉をひそめつつも、観光地化されることで便宜を図られることもある事実を再認識させられました。
 さて、周山城の主だった郭は、林間の道を登りきった稜線上の東西に長く分布しています。東端部の郭には天守台の残骸があります。石垣の一部や、それが崩壊したらしい石が散乱する削平地、虎口の跡らしき区画が見て取れます。途中NHKのアンテナが設置された削平地に「周山城址」の標札が設置されていて紛らわしいのですが、天守台遺構があるのはそこからさらに奥のピークです。全体的に、破壊も進んでいないが保存もされていないと言う印象です。反対の西側郭には天正期の山城にしては規模の大きな石垣が残されているようですが、こちらは都合により確認していません。
 

(2008年03月01日 初掲)





















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