中世阿波の中心となった城。
勝瑞城
所在地
別名
徳島県板野郡藍住町勝瑞
:勝瑞屋形、阿波屋形
築城者
築城年
:細川詮春
:14世紀


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■阿波統治と文化の中心

 戦国大名三好氏、ことに三好長慶の事跡については、これまでにも近畿圏の城にちなんで何度か触れていますが、そもそも三好氏の出自は、阿波国にありました。
 ここ勝瑞城は、三好氏の阿波における本拠地と言っても良い城で、その最盛期には、城を中心とした大規模な城下町も営まれたと考えられています。と同時に、四国における戦国大名諸氏の興亡をよく伝える城であり、その歴史を大まかに見ると、管領細川氏による支配の時代、細川氏の跡目を襲った三好氏支配下の時代、そして古豪を倒して四国統一を成し遂げた長宗我部元親により幕を引かれる形になったと言えるでしょう。

■歴代城主の興亡

 古く鎌倉時代にこの地に居所を築いたのは、阿波国の守護であった小笠原長清とされています。小笠原氏が置いたのは、一般に守護所と言われており、その点からは、城砦と呼ぶほど物々しい施設ではなかったとも考えられるところですが、何であれ、南北朝期に入って、有力守護大名であった細川氏の本拠が秋月城から当地に移された辺りから、城とその周囲に形成された城下町の規模が拡大を始めたと考えられます。
 戦国中期まで、細川氏の武威は大いに奮いましたが、16世紀の初め頃になると、他家からの養子と傍流の一族が争う家督争いが起こり、この一件で勢力を減退させました。最終的には、細川晴元が当主の座に着くことで、長らく続いた紛争は決着を見ましたが、こうした主家の諍いの中で、晴元の有力家臣であった三好元長が細川家中での権力基盤を強めていきました。元長の台頭に危機感を持った晴元は、一向一揆と図って元長を謀殺していますが、年少だった嫡男・長慶は許され、結果的には後年、晴元に取って代わっています。
 もっとも最晩年ともなると、三好氏一党と晴元との争いは、足利将軍をも巻き込んで、室町幕府内での権力闘争へと発展、泥沼化していました。長慶は政敵との抗争に明け暮れながら、この世を去りました。そして長慶亡き後の三好家中で勢力を伸ばしたのが松永久秀でしたが、細川氏及び三好氏が中央での権力闘争で消耗している間に、三好氏の地盤である四国で実力をつけたのが長宗我部元親で、同氏が土佐を統一して阿波国に乱入してくる時期には、三好氏には単独でこれと戦う余裕がなくなっていました。
 織田信長の後ろ盾を得て、長宗我部氏に対抗していたものの、本能寺の変が勃発した天正10年(1582)、長宗我部氏の来攻に際し、当時の城主・十河(三好)存保は、勝瑞城西の中富川で決戦に臨み、これに敗れて勝瑞城へ退却。ついには城そのものも長宗我部軍の攻撃に晒されるに至って、存保は讃岐へと逃れ、勝瑞城はそのまま廃城となりました。なお、後年になって蜂須賀氏が阿波へ移封されてきた時には、勝瑞城の遺材が徳島城築城に転用されたと伝えられています。

■中世平城の跡

 勝瑞城の故地は、現在三好氏の菩提寺である見性寺の敷地となっています。一般に本丸と呼ばれている場所で、一見すると城跡の名残は何も残っていないかのようにも見えてしまいますが、勝瑞城の場合、近世を待たずに役割を終えた中世平城としては、かなり保存状態が良い部類に入り、境内に土塁の跡がある他、寺の周囲には、幅はかなり狭められているものの、農業用水路として、水堀が残っています。現在、城跡の整備も少しずつ進められているようで、寺の隣接地は小規模ながら歴史公園化しているようです。
 さすがに、それ以外の部分はは宅地化の波に洗われてしまっている感じですが、それにしても現在的な感覚で見てみると、本当に単なる平地に水堀を巡らせた程度の城にしか見えず、防御向きではない城という印象ばかり強まります。しかし戦国時代の頃は、北方の旧吉野川が、もっと城地に近い場所を流れて天然の堀の役割を果たしており、かつ一帯が湿地帯だったと考えられることから、現在受ける印象ほど脆弱な城ではなかったと推定されているようです。また、川に近いということは、水運の便を握っていたことも意味し、阿波と近畿を股にかけて活動していた時期の三好氏にとっては、阿波の拠点とするには好適の地であったに違いありません。
 なお、見性寺は江戸時代の半ばにこの場所に移ってきたものであり、境内には同時に移転してきた三好氏歴代の墓と、江戸時代の勝瑞義冢(ぎちょう)碑が建っています。

(2011年05月04日 初掲)





















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