中世畿内の騒乱と共にあった城。
勝龍寺城
所在地
別名
京都府長岡京市勝龍寺
:なし
築城者
築城年
:細川頼春
:延元4年(南)/暦応2年(北)(1339)


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■室町初期から信長上洛まで

 勝龍寺城の歴史は古く、14世紀、足利尊氏の頃に建造され、尊氏率いる北朝方の武将・細川頼春の築城とされ、南朝方に対する備えのための城だったと言われています。その立地上、京の都を戦場にして起こった応仁の乱の時には、細川勝元率いる東軍を牽制するために、西軍の畠山義就が城主として入城しています。山城地方における、重要な戦略拠点のひとつだったのでしょう。
 応仁の乱に端を発する戦国乱世がその極地に達し、十三代将軍・足利義輝が三好氏によって弑逆されるに至っては、三好の武将・岩成友通が勝龍寺城主になっていますが、信長が足利義昭を奉じて上洛してきた時に柴田勝家の攻撃にあって落城、その後には文化人武将として知られる細川幽斎藤孝が入りました。藤孝はこのとき、かなり大掛かりな城の修築を行ったようです。
 

■光秀はこの城を出て…

 藤孝の勝龍寺在城期間は10年ほどでした。その間には、信長に担ぎ出された傀儡将軍義昭が追放され室町幕府が滅亡するという出来事がありました。
 その室町幕府滅亡から10年ほど後の天正10年(1582)6月2日。今度は義昭を追った信長の身の上に、誰しもが想像し得なかったであろう奇禍が襲い掛かりました。世に言う本能寺の変です。信長は重臣の一人だった明智光秀によって討たれます。そしてそれから10日ほどの後に、光秀は備中から引き返してきた羽柴秀吉と山崎の地で戦い、敗れました。
 二時間ほどの合戦の間に秀吉によって軍を散々に突き崩された光秀は、再起を帰すべく、自城であった近江坂本城を目指して敗走を開始しました。その途中に彼は、一旦この勝龍寺城に入り、態勢の立て直しをはかろうとするも羽柴軍の追撃を受けて落城。再び坂本を目指して城を出ました。その道中、ちょうど地図上で勝龍寺城と坂本城を結ぶ直線の中間あたり、山科小来栖の竹薮の中で土民の手にかかり、光秀は文字通りの不帰の客となりました。
 

■忠興とガラシャ

 光秀が討ち取られ、秀吉の勝利が確定した後にこのお城は廃城となっていますが、勝龍寺城にまつわるエピソードは実を言うともう一つあり、現地を訪ねると意外にその部分が強調されています。藤孝の嫡男・忠興と、光秀の三女・玉こと細川ガラシャにまつわる話です。ガラシャは、勝龍寺城時代の忠興に嫁いできたのでした。
 ガラシャは関ヶ原前夜、徳川家康に従軍した忠興を自陣営に引き込むための人質として石田三成に召し出されそうになりますがこれを潔しとせず、家臣の手を借りて自らの命を絶っています(キリスト教では自殺が禁じられているため)。
 そういう経緯もあって、現在は勝龍寺城公園として整備されている城跡には忠興とガラシャの像があるようなのですが、訪問時は休園日だったために城門より中に入ることはできませんでした。資料をもとに復元された堀と城壁は沿道からも見ることができますが、公園内部とそこにあるらしい資料館は開園日でないと見ることができません。まあ、外周の方が本格的なお城らしいという話もあります。
 この種の施設にしては珍しく火曜休園。お出かけの際はご注意を。
 

(2008年03月01日 初掲)















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