坂上田村麻呂が築いた古代城柵。
志波城
所在地
別名
岩手県盛岡市下太田
:なし
築城者
築城年
:坂之上田村麻呂
:延暦22年(803)


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■復元進む城柵

 志波城の跡に整備された志波城古代公園は、盛岡市の郊外に位置しています。盛岡駅からバスに揺られてたどり着いたこの公園には、予想に反して規模壮大な城壁が建っていました。立派な城門を作ったもんだなあと言うのは、事前にホームページの写真などを見て知ってはいたのですが、そのサイズは予想外でした。事前に情報収集した際には存在をつかめなかったガイダンス施設が城門の近くに建っている辺り、少しずつではあっても順次、施設の拡充が続いているのかもしれません。
 城壁を潜り抜けたその先は、だたっ広い空間となっており、建物らしい建物はほとんどありません。そうした中で、竪穴式建築の再現が行われている他、掘立柱建物の脚が立っていたり、一部に官衙建物を模した展示が行われていたりします。官衙建物は、一応内部に入ることも可能なようですが、城門の外にあったにあったガイダンス施設に話を通さないと、入口が施錠されていて中を見ることができないシステムのようです。建物の傍らに電話があり、そこから話をすれば、それから係の人が開けに来てくれるシステムだと思われます。一人客のためにそこまでしてもらうのは気が引けるし、気も使いそうなので、外から覗き込むだけにしました。

■短期で役割を終える

 志波城は、坂上田村麻呂によって築かれたと言われています。エミシ側の英雄アテルイ(阿弖流為)を下した翌年の造営とされており、多賀城の例と同様、強固な軍事拠点として築いたものと言うよりは、大和朝廷の力がここまで及ぶに至ったことを誇示するための施設としての性格も強かったのかもしれません。再現建物とは言え、つい今しがた見てきたような城壁は、一応資料に基づいて再現されたものだろうことを考慮すれば、ここに籠って戦うことも、もちろん可能だったと思われます。
 もっとも、城柵としては不遇だったようで、異民族との戦いではなく、水害によってその機能の多くが失われたと言われています。結果的に城柵としての機能は、10年ほどの内に規模を縮小して少し南の徳丹城に移されました。さらに、長期的に見ると、志波城が担った政庁としての機能も、後年はるか南の胆沢地方に移っています。平安時代は400年ほども続いた長い時代ですが、鎌倉時代の見えてきた奥州藤原氏の拠点が岩手県南部の平泉にあったことを思えば、この地域はいつまでも政治・文化・経済の中軸にはなれず、辺境としての性格が強いままだったのかもしれません。

(2016年07月07日 初掲)















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