仙台藩の支城。
白石城
所在地
別名
宮城県白石市益岡町
:益岡城
築城者
築城年
:藤原経元
:応徳4年/寛治元年(1087)


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■片倉氏の居城

 伊達政宗の生涯は、苛烈なものでした。特に肉親との関係には不幸が多く、経緯はどうあれ父と弟をその手にかけ、生母には逆に毒殺されかかったと言われています。往年の大河ドラマはそんな政宗を主人公に制作されましたが、そんな彼が性酷薄にして孤独な暴君とならずに済んだ理由の一つに、生涯政宗に忠節を尽くした股肱の臣・片倉小十郎景綱の存在があったような気がします。
 白石城は、伊達氏の仙台藩にあってなお存続した支城です。当然のことながら、一国一城令が布かれた江戸時代においては異例の存在であり、景綱の子孫である片倉氏は白石城主として、伊達家中において重きをなしました。全ては、景綱の主家に対する忠誠に始まったものとして良いでしょう。

■伊達の重要拠点

 平安時代後期、白石城には奥州藤原氏の子孫に当たる刈田氏が居城していたと伝わります。刈田氏は後年に白石氏を名乗るようになり、戦国時代には伊達稙宗に仕えるようになりました。以後の白石氏は伊達家中で着実に力をつけ、同時に白石城も伊達氏の勢力下に組み込まれていきました。
 稙宗のひ孫に当たるのが他ならぬ政宗で、政宗の時に伊達氏は勢力の拡大に成功しますが、当時すでに日本国内は豊臣秀吉によって統一されようとしていました。版図拡大を企てた政宗の戦いは、私闘として秀吉からの処分を受け、白石城の含まれる刈田郡は伊達氏の手を離れて蒲生氏の領国に組み込まれました。秀吉や織田信長にその才能を愛された蒲生氏郷は、政宗の監視のため会津に送り込まれたと言われています。
 ところが氏郷は若くしてこの世を去ります。白石城は新たに会津に入った上杉氏の支配下に置かれますが、中央では秀吉の死を受けて徳川家康が天下を狙って動き始めました。有力大名ながら豊臣氏との結びつきがそれほど強くなかった政宗は、家康が自身の天下取りのため頼みにするには都合の良い相手だったため、両者の間は急速に接近していく事になります。途中、政宗の野心が彼自身の身を危うくしたこともありましたが、家康が幕府を開くと、政宗は東北南部に安定的な地歩を築くことに成功し、白石城も再び伊達氏の領内に帰属する事になりました。藩政期の伊達氏にとって、白石城は領内の最南部に位置する城で、ここに最大の忠臣にして功臣である景綱が入ったのは必然でした。

■再建された城跡

 幕末維新の混乱期、白石城では新政府に反対する奥羽列藩の会議の場が設けられるなどの出来事がありましたが、最終的には明治の廃城令により建物のほとんどが取り壊されました。
 現在の白石城跡には、天守閣に相当する御三階櫓が存在していますが、これは平成7年(1995)に再建されたものです。木造の建物で、工法にも伝統的な日本建築のそれが用いられているようです。建物自体が見せ場になっているのか、内部展示はやや控えめです。御三階櫓以外に城門・城壁なども復元されており、全体的に外観はお城らしい雰囲気を出しています。逆に曲輪内には現代的な公園が造成されており、少々そっけない造りになっているのはもったいないところです。

(2009年08月21日 初掲)















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