みちのくの入口に位置する城。
白河小峰城
所在地
別名
福島県白河市郭内
:白河城、小峰城
築城者
築城年
:結城親朝
:延元5年(南)/興国元年(南)/暦応3年(北)(1340)


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■関門の城

 東北の入口・白河は交通の要衝として、古来関所の置かれた土地柄でした。当然、戦時にこの地を押さえることは軍略上の重要事項と考えられ、鎌倉時代には結城祐広の手によって、搦目山上に一帯を治めるための城が築かれています。
 新城が現在の場所に築かれたのは興国元年(1340)の事でした。築城者はやはり結城氏の当主・親朝で、以来豊臣秀吉による全国統一まで、結城氏は白河の城主であり続けましたが、天正18年(1590)の国替えにより、以後白河は会津若松蒲生氏の領地の一部に組み込まれました。そして会津の主が交代するのに合わせ、白河の統治者も蒲生氏から上杉氏に代わっています。
 上杉氏の支配下にあった時期には、徳川家康の会津攻めが行われており、迎撃する側の上杉氏は白河周辺を決戦地と定めて防塁を築き、その遺構も残っていますが、会津攻め自体、石田三成打倒のために家康が企てた腹芸のようなものであったため、白河が戦場になる事はありませんでした。

■めまぐるしい親藩・譜代の入れ替わり

 関ヶ原の戦いを経て上杉氏が米沢に減移封となると、白河は再び蒲生氏の支配地となりましたが、寛永4年(1627)には丹羽長重が十万石で入城し、ここに白河藩が成立する事となりました。
 長重の時に、城は改修され、城下町も整備されましたが、丹羽氏の在城は二代で終り、寛永20年(1643)に榊原氏が封じられたのを皮切りに、本多氏、奥平氏、越前松平氏、久松松平氏、阿部氏と親藩・譜代が頻繁に入れ替わるようになりました。明治維新を迎える頃には天領となっており、江戸幕府がいかにこの地を重要視したかをうかがい知れます。ちなみに白河藩は寛政の改革を行った松平定信を輩出しており、そのことからも有力大名の配された藩であったことが分かります。
 維新後、白河城は戊辰戦争の舞台となりました。一度は新政府軍の支配下に入っていたのを奥羽越列藩同盟軍が奪い返したのですが、新政府軍の本格的反攻を前にして5時間ほどで落城。城の建物は灰燼に帰しました。

■花の咲く城

 事ほど左様に、戦火で主だった建造物を失った白河城でしたが、平成3年(1991)になって御三階櫓が再建されています。JR白河駅の北方に建つ白亜の城郭建築は、なかなかに見栄えのする出来栄えです。何やら悶着はあったようですが、現在は復元櫓の中に入る事もできるようです。ただし私は時間の都合で内部は見ていません。復元櫓以外の城郭遺構としては、石垣、土塁、水堀などが残ります。
 この他、帯曲輪の一部にはバラ園が営まれるなど、多くの花が訪問者の目を楽しませてくれそうです。私が城を訪ねた時期は、東北地方が遅い春を待ちわびる3月の半ばだったため、バラこそシーズンではありませんでしたが、ちょうど梅の花(だと思う)が見ごろでした。

(2009年08月09日 初掲)















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