断末魔の築城。
新府城
所在地
別名
山梨県韮崎市中田町中條
:新府中韮崎城
築城者
築城年
:武田勝頼
:天正10年(1582)


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■断末魔が聞こえる…

 新府城は、長篠の大敗に起因する自陣営の長期低落傾向と宿敵織田氏の急力な勢力伸長などのために自家をとりまく状況が予断を許さないものになった天正9年(1581)に、武田勝頼の命によって建設を開始されたお城です。
 勝頼の祖父・信虎の代に武田氏の居館は石和から古府中(甲府)に移されました。このとき信虎は、あくまで平素の館に過ぎなかった躑躅ヶ崎館の詰めの城として要害山城を築かせていますが、この城は規模も小さく、織田の大軍が怒涛のごとく押し寄せてきた際のことを考えると、あまりにも頼りないものでした。父・信玄の治世に至っては、甲斐国内に新たな城が築かれる事すらありませんでした。事実上外敵の脅威からは無縁であったためです。このため勝頼は、遠からずやってくるであろう織田軍との対決に備え、自身の居城を甲府の町ともども要害の地に移そうとしたのでした。そして選地の末にこの場所が築城地に決定し、真田昌幸が築城奉行として建設に当りました。
 新城は、夜を昼につぐ突貫工事の甲斐があって、8ヶ月ほどで一応の形になりました。しかし、実戦に臨むには整備不十分であり、現実に織田軍の侵攻が開始されるに至っては、結局勝頼自身の手によって火を放たれ、破却されています。勝頼は、この城から落ち延びていく途中で家臣・小山田信茂の謀反に遭って田野の地で自害、名門甲斐源氏武田氏の本流は途絶えました。
 

■もし、城が完成していたら…

 実を言うと現地を訪ねるまで、新府城に対しては「織田軍の侵攻に合わせて泥縄式に建設された城」というイメージを持っていました。泥縄の城ですから、その機能も推して知るべし程度の物だと思っていたわけです。しかしこの城は、勝頼によって破却されてからさほどの時間を経ていない時期に、かなりの実績をあげているのだそうです。
 時は本能寺の変勃発後。「信長死す」の報に甲信の地は一気に混迷のるつぼと化し、この地を治めていた織田の武将・川尻秀隆がその混乱の最中に討ち死にすると言う事態にまで発展しました。その隙を見逃さずに甲斐国内へ侵入してきたのが、長年に渡って武田と争ってきた小田原北条氏と、信長の同盟者だった徳川家康でした。新府城(その頃にはすでに新府城「跡」と言った有様だったようですが)はこの時、あまり手も入れられないままに家康の陣所として使われ、それで数に勝る北条軍を防ぎきったとされています。その間にも家康は、武田の旧臣たちに調略の手を伸ばして北条を出し抜き、甲信の地を手に入れる事に成功しました。
 甲斐が家康の治めるところとなると新府城は完全にその存在意義を失い、名実共に廃城となりました。
 

■武田滅亡、直接の原因は?

 現在の新府城址には、頂上部の削平地に明治時代に造営された藤武神社があるだけで、遺構と呼べるほどの物はほとんど残されていません。甲州流の築城術においては石垣が余り利用されず、新府城にも石垣が存在しなかったので、城の遺構としてはもっとも残りやすい物のひとつである石垣すらもありません。神社に向かうまっすぐな石段は、神社と共に作られた物です。この城の顔であった七里岩を国道20号線側から望んだ方がむしろ、城跡らしく見えるかもしれません。私は中央線で出かけましたが、最寄の新府駅はほとんど電車が止まらないこともあり、車での訪問をお奨めします。
 さて、そんな新府城址の一角には、勝頼と、長篠の戦いで討ち死にした宿将たちが祭られています。否が応にも武田氏の最期を連想させられるこの場所に彼らが祭られているのは、やはりあの戦いの敗北が家の滅亡につながったとする考え方が支配的なのでしょう。それはそれで間違いではないと思います。どこで武田氏の滅亡が決定的になったかについては色々と議論があり、長篠の敗戦、御館の乱、そして無理な工事で人心の離反を招いたと言われる新府築城が主だった原因だとされるのが普通です。
 ただ、あえて致命傷となった出来事を一つ挙げるとすれば、私見ながら御館の乱だったのではないかと思います。現実的には、いろいろな条件の複合だと思いますが。

(2008年03月01日 初掲)





















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