紀伊徳川家附家老の城
新宮城
所在地
別名
和歌山県新宮市新宮
:丹鶴城、沖見城
築城者
築城年
:浅野忠吉
:元和4年(1618)


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■熊野別当の時代から紀伊徳川家の拠点へ

 熊野に代表される紀伊半島南部地域は、現在でも決してアクセスしやすい地域とは言えません。まして徒歩や駄獣交通によらざるを得なかった近世以前ともなると、都市に暮らす人々にとってはさながらこの世の果てのようにさえ思える土地柄だったことでしょう。その一つの表れが熊野信仰だと言えますが、それほど多くの信仰を集めた熊野三山を司る役職者、すなはち熊野別当の、当地における影響力は強く、国内が戦国時代を迎えるに至っては、戦国大名化を果たしました。その最盛期の人に当たるのが堀内氏善で、この人物は熊野三山を司るという形骸的な権威のみならず、よく知られる熊野水軍の統括者としての一面も持っていました。そうした性格もあって、織田信長、続く豊臣秀吉の時代には彼らに仕え、海の戦将として重用されたようです。堀内氏は熊野の地と不可分の出自を持っていたことから長らくこの地を領し、この堀内氏の時代に、新宮城と呼ばれる最初の城が築かれました。もっとも、堀内氏の新宮城があったのは現在見られる新宮城址からはやや南西方向に離れた場所でした。
 堀内氏の居城は平城だったようですが、堀内氏が関ケ原の戦いで西軍に属してこの地の領主の座から転落したことから、代わって一帯を領有することになった浅野忠吉は、丹鶴山と呼ばれる小丘上での新城築城に着手しました。築城のさなかには元和の一国一城令が発せられ、忠吉が紀州藩主・浅野幸長の家臣であったことから城の完成は一時危ぶまれる状態となりましたが、紆余曲折を経ながら寛永10年(1633)に完成を見ました。この頃には、紀州の主は、よく知られる紀伊徳川家の藩祖・徳川頼宣に代わっており、新宮城には頼宣の傅役にして附家老となった水野重央が入りました。その後は水野氏による統治が続き、そのまま明治維新を迎えました。

■城郭遺構のある公園

 水野氏の新宮城は、JR新宮駅の東側を流れる新宮川に望んで建つ山城でした。そうは言っても、海も指呼の距離にあるため、周辺との比高差は正しくたかが知れている程度です。天険を頼んで選地されたものというよりは、水運の便その他、平和な時代に相応の観点からこの場所が選ばれたもののような気がします。
 現在では公園整備されており、この小高い丘を上り詰めていくと、切り込みハギの整然と詰まれた石垣が残っています。すべてが旧時代の遺物とは思えませんが、新宮城址が国指定の史跡になっているのは、これらの遺構の状態が良いためなのでしょう。本丸からの眺めは良く、そういったところも込みで、公園とするにはうってつけの場所だと言えます。ちなみに、JR紀勢線は、城山の山腹を抜いて走っています。工事の際、縄張りになんらかの影響があったとしてもおかしくありませんが、城跡自体が観光開発の危機にさらされたこともあったようで、そちらの方が切実な問題だったのかも知れません。

(2017年12月21日 初掲)















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