北条氏が小田原征伐に備えて築いた城。
下田城
所在地
別名
静岡県下田市三丁目
:鵜嶋城
築城者
築城年
:北条氏
:天正年間(1573〜1592)


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■海運の要衝

 ペリー来航ゆかりの地として名高い下田は、伊豆半島の先端部に位置しています。アメリカは下田に対し貿易港としての役割を期待したのではなく、捕鯨船や交易船に補給を行わせる寄港地にしようという目論見を持っていました。下田は、江戸をはじめとした大都市からは遠いながら、太平洋に突き出す形となっており、恰好の立地だったと言えます。
 そんな下田の海運上の利点に注目したのは、中世伊豆の支配者となった小田原北条氏も同じでした。勢力の伸長に伴って水軍を擁するに至った北条氏は、伊豆の各地にその拠点となる城を配しましたが、豊臣秀吉との衝突がもはや避けがたい情勢となるに至って、下田の入江の開口部を見下ろす丘陵上に下田城を築きました。詳細な時期は定かでないながら、おおよそ天正の末年頃のことだったと考えられており、守将としては水軍衆の中でも随一の将だったと言われる清水康英が入れられました。
 そして天正18年(1590)、秀吉による小田原攻めが現実のものとなると、下田にも長宗我部元親や九鬼義隆ら、海戦に長じた武将らの軍勢一万余が押し寄せました。多勢に無勢となった康英は、数百の兵で下田城に籠城し、約50日間を戦い抜きました。下田城は力攻めの前に落城したのではなく、最後は開城勧告に応じて終戦を迎えました。
 北条氏滅亡後、その遺領は徳川家康のものとなり、下田城もその配下に置かれましたが、江戸幕府が開かれるにあたって幕府の直轄領となり、その際に城は破却されました。

■乏しい城郭の記憶

 天下統一に向けた最終戦の一局面を担った城として、ある意味華々しく歴史にその名を刻んだ下田城ではありましたが、逆に言うと表立って脚光を浴びたのはわずかに10年余りの期間に過ぎませんでした。そのためか、その来歴についてはいまだに詳らかになっていない点も多く、史跡としての保存・整備の状態は高い水準にあるとは言えません。下田公園の一角に、わずかに天守台跡とされるものが存在する程度です。もっとも、城の使われた時期や果たした役割のことも考慮すると、果たしてこの城が本当に天守を備えた城だったかと言う点については、若干の疑問が残ります。下田公園自体、すでに公園として完成されてしまっている感があり、今後発掘調査が行われる可能性があるというわけでもなさそうです。当面、乏しいと思われる文献資料に依拠した物以上の情報が出てくることはないのかもしれません。
 なお、同じく下田市内には下田城美術館という施設(2018年現在休館中)が存在しますが、史実の下田城とは全く別の場所に位置しており、特につながりがあるわけでもないようです。

(2018年09月26日 初掲)















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