国境の島に築かれた城。
清水山城
所在地
別名
長崎県対馬市厳原町西里
:なし
築城者
築城年
:宗義智?
:天正19年(1591)頃


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■大陸と対馬

 朝鮮半島に近い対馬では古代から、東アジア諸国を敵国とした城が築かれています。古くは白村江の戦いの頃、百済と組んで唐・新羅の連合軍と戦い大敗した倭国は、唐や新羅の脅威が本土に及ぶ日のあることを見越して、最前線となる対馬に古代城郭である金田城を築いています。この金田城の跡は、今も国の特別史跡として保存されていますが、これとはある意味で真逆の思想により築かれたのが清水山城です。
 清水山城は、白村江の戦いから900年余り、豊臣秀吉による朝鮮出兵に際して築かれました。国内では名護屋城よりも戦地に近く、文字通りの最前線の城でした。城自体はかなり本格的に構築されたものですが、ここで戦闘が発生するような事態を現実的に想定していたというより、兵站確保のために築かれたものと見るべきなのかもしれません。朝鮮出兵の際、日本軍が深刻な兵糧不足に悩まされたことはよく知られていますが、近年の研究では海上輸送の破綻によるものではなく、上陸後に兵站線が伸びきったのが致命的であったと考えられるようになっています。清水山城は兵站基地として目立って活用されることはなく、同時に敵を迎撃するための軍事拠点としても実用に供されることはありませんでした。

■石垣をまとう山上の陣城

 城は毛利高政が築いたとも、宗義智が築いたとも言われています。対馬の地自体が辺境であることは否めず、何と言っても戦時築城なので、陣城の延長にある城なのではないか。一面ではその遺構の状態に期待しつつ、他方でどこかたかをくくりながら現地を訪ねたところ、この城は紛れもなく天下人の城でもあったようです。その事実のもの凄まじさを見せつけられた思いがします。規模そのものは、日本各地に残された名のある大名の山城に一歩譲る感じですが、石垣や石塁によって物々しく防備を固めた城の名残には、土の城には見られない迫力があります。築城時期の絡みもあるのでしょうが、石積みの技法は野面積止まり、使われている石材もそれほど大きくないのは、やはり辺境の陣城の特性なのでしょう。城跡付近にはおそらく自然石と思われるかなり大きな岩も存在しており、ある程度は石材として利用可能な石を産したものと思われます。
 縄張り跡では険しい坂道も一部に存在します。縄張りを見て回るには不利な面もあるものの、遊歩道をメインに歩くのも一つの方法なのかも知れません。主だったところを見るだけであれば比較的短時間で済み、山麓の金石城から登り始めて20分ほどで本丸と思しき城内の最高所に至ることができます。残念なことに、場所が場所なためか、史跡としての整備はまだ道半ばといった所らしく、解説板や縄張り図の類は現地にほとんど立てられていません。各曲輪の跡はそれらしい平坦地になってはいますが、それらが現地でもわずかに名前の見られる二の丸や三の丸のいずれに相当するものなのか、明快に比定することも難しい状況です。

(2015年01月20日 初掲)















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