島原を睥睨する層塔型の城。
島原城
所在地
別名
長崎県島原市城内一丁目
:森岳城
築城者
築城年
:松倉重政
:元和4年(1618)


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■島原城の前身

 島原城は現在で言う長崎県の南東部、すなはち島原半島にあります。比較的に海から近い場所に立地しており、島原湾を挟んで熊本市と向き合うような場所です。江戸幕藩体制下において必ずしも突出して重要な拠点だったとは思えないのですが、その割には立派な城を建てたものだと言うのが島原城復元天守を目にしたときの印象です。この復元天守は昭和39年(1964)に鉄筋コンクリートによって再建されたものですが、外観においては江戸時代以前のそれをかなり正確に再現したもののようです。
 少し城の歴史を紐解きましょう。島原城の建造された場所にはかつて、森岳城という城がありました。城の詳細については不明なところがあるものの、天正12年(1584)、肥前村中城の龍造寺隆信が島原地方の支配を確定的なものにすべく、この地方を治めていた有馬晴信を森岳城に攻めています。有馬氏の背後では薩摩の島津氏が糸を引いており、自陣営に味方する有馬氏が攻められたのを受け、島津氏は援軍を送っています。こうして行われたのが沖田畷の戦いです。島津の当主・島津義久は戦略眼に優れ、彼の弟達はいずれも武勇の誉れ高い勇将たちであり、薩摩兵は精強をもって知られていましたから、当初は島津・有馬連合軍の不利に見えたこの戦いは、龍造寺軍の大将である隆信の討ち死にによって幕引きとなっています。

■キリシタンを苦しめた城

 後の元和2年(1616年)に有馬氏が日向国延岡に転封になると、これに代わって松倉重政が大和から四万三千石で封じられます。現在で言う島原城はこの時に松倉氏の新たな居城となるべく築かれたものです。四万三千石は、決して大身の大名とは言えません。にもかかわらず、築き上げられた城は分不相応に立派なものでした。実際に松倉氏は、築城のため領民に過度に厳しい税を嫁したと言われており、このことに対する不満が後に勃発する島原の乱の主因になったとも言われています。
 反面、島原の地はもともとキリシタンの多い土地柄で、幕府がキリスト教を禁制とした以上はこれを厳しく取り締まる必要がありました。重政とその子勝家はこうした幕府側の要請にある意味ではよく応え、キリシタンに対する過酷な弾圧を行いました。これも島原の乱の大きな原因の一つとして知られていられる話ですが、一説には頑として転ばないキリシタンに業を煮やした重政はキリシタンバテレンの本拠であったルソンを直接攻撃することで領内からキリシタンを根絶しようとまで夢想していたとも言われ、そういう話を聞くと不調和なほどに立派な島原城はそうした大戦略を見越して築かれたものだったと見られなくもありません。
 しかし、築城者の思惑が奈辺にあったのかは定かではありませんが、この築城がとどのつまりは日本史上最大のキリシタン一揆の引き金になったのはかなり確度の高い話のようです。島原城を築いた松倉氏は島原の乱の責を問われて断絶、以後は松平氏や戸田氏などが城主を勤めました。

■破風のない城

 現在見られる島原城には、前述の復元天守をはじめ、高石垣などが存在しています。ある程度お城を見慣れた人ならば島原城の天守閣を見て何か違和感を感じる事があるかもしれません。逆によほどお城に詳しい人でもなければ、今度はその違和感の正体が一体何なのかについて気付けないかもしれませんが、島原城天守閣にはかつても今も破風が付けられていませんでした。破風とは、多くの城の屋根に見られる三角形の装飾部位のことで、これがないために島原城天守閣は、角錐形をした塔のようにも見えます。
 高い石垣によって周辺地形よりも一段ほど高所に築かれた島原城は、現在の島原市内の各所からも目に留まる、島原市を象徴する建造物の一つとなっています。そうした点を買われてか、現在では日本城郭協会が制定した百名城の一つにも数えられていますが、かつての大噴火で島原市内にも大きな被害を出した雲仙普賢岳を背景にするように城を眺めていると、この城が何か非常に哀愁を帯びて見えてくるような気もするのだから不思議です。

(2008年04月01日 初掲)





















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