松永久秀最期の城。
信貴山城
所在地
別名
奈良県生駒郡平群町大字信貴山
:なし
築城者
築城年
:木沢長政
:天文5年(1536)頃


お城スコープ > お城総覧 > 信貴山城

■弾正謀反

 戦国有数の謀将であった松永久秀の生涯については、これまでにこのサイトでも何度か言及しています。その人となりの紹介は多聞山城の項に譲るとしますが、ここで紹介する信貴山城も、久秀を語る上で特別な意味を持つ城です。居城であったのはもちろんのこと、その一生の幕引きの場となった城でもあるからです。
 謀略と裏切りにまみれた人生を歩んだ久秀は、足利幕府内における権力闘争に明け暮れた後、新たに台頭した織田信長に仕える道を選びました。しかし、天正5年(1577年)になると、結局は信長に対して反旗を翻しています。
 当時、武田信玄はすでに亡くなっていましたが、毛利氏や石山本願寺など、信長に抵抗する勢力はまだ残存していました。さらに手取川合戦において柴田勝家以下の北陸方面軍が上杉謙信に大惨敗を喫したのがちょうどこの時期で、久秀をして無謀とも思える謀反に走らせたのは、この一事が大きく作用した可能性もあります。が、謙信は勝利の後に領国越後へと引き返し、北陸での敗戦が中央の戦局に決定的な影響を及ぼすことも無く、久秀は信貴山城に孤立することになりました。

■平蜘蛛の釜

 こうなってしまうと、久秀の謀反は失敗に終わり、少なくとも今以上を望む事はできなくなりました。後はいかにして信長の赦免を得るかでしたが、意外にもこの一事については光明が見えていました。信長は、久秀が所有していた名物茶器「平蜘蛛」の茶釜を差し出せば、命は助けると言います。
 謀略家として、どちらかといえば世俗にまみれたイメージのある久秀ですが、当時としては指折りの知識人・文化人でもありました。天下に二つと無い茶器を持っていたのもその表れと言えますが、久秀は信長の条件を蹴り、信貴山城の天守とともに、自爆します。一説には茶釜に爆薬をつめて爆死したとも言われています。
 幾分か怪奇趣味めいた伝説によれば、焼け跡から発見された「平蜘蛛」の釜には久秀のものと思われる腕が絡みつき、容易には引き剥がせなかったとも言います。話半分でしょうが、久秀の執念と、それを生み出した信長との不和が仄見える逸話です。両者のそりが合っていなかったのは、あるいは同時代の人には周知のことだったのかもしれません。

■朝護孫子寺の奥山

 信貴山城跡は、現在は朝護孫子寺となっています。と言うより、両者の歴史を比べれば城よりも寺の歴史のほうがずいぶんと古く、寺のあった信貴山に一時期城が築かれていた、としたほうが適当なのかもしれません。朝護孫子寺は山腹にありますが、信貴山城は、具体的な築城時期は不明ながら、山頂を中心に築かれていました。現在は朝護孫子寺の空鉢堂がある辺りです。
 朝護孫子寺の名物と言えば張子の虎です。寅年の正月に登城したところ、本堂周辺を中心に大変な人出があり、静謐な山城攻めを想像していただけに面食らうところがありました。空鉢堂は本堂からもかなり上に行ったところにあり、さすがに観光気分の参拝客は滅多に登らないようですが、それでも善男善女の訪れも多くありました。山頂までの道は参道の位置づけになっているため、山城特有の足場の悪さはありません。
 空鉢堂近くには信貴山城の石碑もありますが、山頂はお寺の建物によって占められており、ちょっと城跡を想像しにくいのが実情と言ったところ。もっとも、平らに削られた山頂の縁から下のほうを見下ろせば、往時の曲輪の跡のような地形も認められました。どこかから降りられるのかは分かりませんでしたが。
 山頂は、木に覆われた部分が多いのですが、奈良県側と大阪府側、すなはち大和と河内の両面に対して睨みが利き、この地を勢力基盤にした久秀が信貴山城を居城に選んだのも頷けます。

(2010年03月19日 初掲)





















戻る
TOP