上杉氏を悩ませた新発田重家の城。
新発田城
所在地
別名
新潟県新発田市大手町
:菖蒲城
築城者
築城年
:新発田氏
:不明


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■北越の有力国人

 2012年現在、かなり定着した感はありますが、日本百名城と言うのがあります。2006年に財団法人日本城郭協会が選定したもので、環濠集落である吉野ヶ里遺跡や、いくつかの古代城郭、アイヌのチャシなど、現在の日本国内に見られる城郭的なものを総括し、その中から百城を選出しているので、狭義の城を中心に回っている「お城スコープ」においてはターゲットから外れている城もいくつかはありますが、生粋の城(?)でありながら、ごく最近まで未訪のまま来ていた城があります。それがこの、新発田城です。単純に遠い上に交通の便が悪いこと、新潟県下越地方にあまり用事がないことなど、不利な条件がいくつか重なった結果でした。以上、余談のような話。
 新発田城の築城時期は、現在のところ正確にはわかっていません。逆説的に言えば、相応に古い時期まで遡る可能性があることを意味し、一般には鎌倉時代頃の築城で、築城者は地名と同じ姓を持つ在地領主・新発田氏であったと考えられています。
 新発田氏は、「揚北衆」と呼ばれた越後北部の土豪の一氏族でした。越後南部を治めていた長尾氏が戦国大名化し、そこに出自を持つ上杉謙信が最大版図を築いた時期にも、新発田城にあって北越後で重きを成しましたが、謙信の跡目をめぐって生じた御館の乱を契機として、新発田氏と上杉氏との関係は悪化しました。

■新発田重家の乱

 景勝と景虎、謙信の二人の養子による家督争いであったこの内紛で、新発田重家は景勝を支援し、その軍功には目覚しいものがあったと言われていますが、戦後の論功行賞が景勝の子飼いであった上田衆ばかりに手厚かったことに不満を募らせ、天正9年(1581年)には景勝に対して反旗を翻しています。いわゆる新発田重家の乱で、反乱は足掛け7年の長期間にわたりました。上杉氏が御館の乱の傷跡や織田氏の侵攻に代表される内憂外患を多く抱え、乱の征討に力を傾けることが出来なかったこと、さらには重家が長年上杉氏と宿敵関係にあった蘆名氏や伊達氏の支援を得ていたことがその理由とされています。乱の鎮圧のためには、最終的には豊臣秀吉の支援を受けなければなりませんでしたが、いずれにせよ古豪上杉氏の衰退を如実に物語る出来事だったと言えるでしょう。
 ちなみに、直江兼続と上杉景勝の主従が主役だった大河ドラマ「天地人」では、乱をめぐる一連のエピソードは実質割愛されてしまいました。義の人であるはずの景勝が、身内に甘い仕置きをしたことで人心の離反を招いたこの事件は、ドラマの主旨にはそぐわなかったのでしょうが、上杉の家を相続した景勝は、自身の求心力を増すため、謙信時代からの老臣を廃す一方で自身が股肱と頼む家臣を取立て、新しい家中の体制を作り上げる必要に迫られていました。綺麗ごとだけでは戦国乱世を渡ってはいけなかったということでしょう。

■近世城郭の遺構を残す

 ところで、現在新発田城と呼ばれている物は、慶長3年(1598年)に溝口秀勝によって築かれたものです。堀秀政付きの与力大名であった秀勝は、同年に堀氏が越後へ国替えになったのに伴い、新発田に六万石の所領を与えられたのでした。秀勝は、かつて景勝によって攻め滅ぼされた新発田城の故地に新城を築きました。
 現在の城跡は、旧城地の多くが自衛隊の駐屯地となっていることもあって、自由に見て回れる範囲が限られており、どこか窮屈な印象さえ残ります。ただし、表門と、城地の一角に残る二の丸隅櫓は貴重な現存建造物で、国の重要文化財に指定されており、そういったところで月並みの城跡公園とは一線を画していると言えます。このほか、三階櫓と辰巳櫓の復元も行われており、水堀を隔てて城を眺める際には、非常に見栄えのする城跡となっています。

(2012年12月19日 初掲)





















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