みちのくの覇者の城。
仙台城
所在地
別名
宮城県仙台市青葉区川内
:青葉城
築城者
築城年
:伊達政宗
:慶長6年(1601)


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■岩出山から千代へ

 仙台城は、慶長6年(1601)に伊達政宗によって築かれました。それまで政宗は玉造郡の岩出山城を居城としていましたが、岩出山城の位置は政宗の領内でも北西に外れており、領国経営には決して好適の地ではありませんでした。さらに大規模な城下町を形成するには手狭に過ぎ、街道筋からも外れているなど、間もなく訪れるであろう太平の時代の執政所としてはやや時代遅れの感がありました。
 慶長5年(1600)。関ヶ原の戦いが勃発します。政宗は、会津の上杉景勝に対抗した功により、二万石の加増を受けます。これで旧来の五十八万石に加えて六十万石の大名となったのですが、事前に取り交わされた、いわゆる「百万石のお墨付き」によれば、政宗がこの時得るはずだった所領はおよそ五十万石。その昔、葛西大崎一揆の時と同じようにどさくさ紛れに味方のはずの南部領を切り取って領土を広げようとした野心を家康に見咎められ、お墨付きを反故にされたのです。政宗の落胆はいかばかりだったかと思われますが、同年のうちに政宗は、新しい城の候補地として千代、榴ヶ崎、石巻日和山、大平寺山を選定し、家康の許可を求めています。そして11月には、千代築城にゴーサインが出ています。
 

■仙台築城

 仙台城が築かれる事になった青葉山には、もともと城があり、古くは島津氏や結城氏、国分氏が居城していた事もあります。これが政宗による築城前のある期間廃城状態になっていました。慶長6年(1601)に千代へと移った政宗は、漢詩『同題仙遊観』の一節「仙台初見五城楼」から取って地名を仙台と改めました。
 政宗の百万石に対する執着は強かったようで、領国経営が軌道に乗り出した頃から伊達藩では開墾を奨励、江戸時代の比較的早い段階で実高百万石を達成していたと言われています。政宗の気宇壮大な構想は単なる領土的野心を超えたものだったようで、東北に一大王国を築き上げる目論見があったというふうに言われる事もままあります。そうした政宗の心意気を示すエピソードとして、仙台城には主上を迎えるための広間が存在したと言われますが、反面でこの城は天守閣を持たず、これは幕府を憚ってのことだったと言われています。
 ともあれ往時の仙台城は壮麗なものだったようで、慶長16年(1611)に仙台を訪れた宣教師ビスカイノは仙台の城と町のことを、日本で「最も優れ、また最も堅固なるものの一つ」であり、「入口は唯一にして、大きさ江戸と同じうして、家屋の構造はこれに勝りたる町を見下ろし」と評しています。
 

■何しろ雄藩の城

 岩出山城の項で触れましたとおり、私は山城としての岩出山城をかなり過大に評価していましたが、それとは逆に仙台城をかなり見くびっていた節があります。もちろん、表高六十万石の大大名の居城ですから規模が大きいのは承知していたつもりですが、思ったよりも高度さがあったというか、曲がりなりにも山の上に築かれていたのに面食らいました。現地を訪ねてみるまでは、もうちょっと平坦な城ではないのかと思っていました。青葉山は広瀬川の右岸に位置しており、川岸の辺りから本丸までの高低差は結構なものがあります。徒歩で本丸を目指そうとする時、この距離が意外と長く感じられました。私が仙台城を見くびっていたというのも大きいのでしょうが。
 山の麓の仙台市博物館入口辺りには、政宗を支えた股肱の臣・片倉小十郎景綱の屋敷跡があります。ここから本丸を目指して歩き始めるとまず復元大手門があります。この門の存在により自分が城地に踏み込んでいるというのが実感として分かるのですが、現在では仙台城内にも車道が通っており、しかもその道の交通量がかなり多いため、少々戸惑わされます。この道は城の大手道に沿って敷設されたものか、一応枡形の痕跡も残されていて、往来の車は今でもS字クランク状の道を走り抜けていきます。
 本丸(と言うより青葉山の反対側)へと通じている道の路肩をとぼとぼ歩いていくと、坂道の終わり頃でかなりの高さを誇る石垣が視界に飛び込んできます。さすが六十万石の城と言う規模の石垣で、この石垣の上辺りが仙台城本丸です。本丸跡には、石垣に関する展示などがありますが、基本的には大きな広場と言った雰囲気の場所です。
 本丸の一角に有名な伊達政宗の騎馬像があります。本丸からは仙台市街を一望の下に出来、政宗像は今もこの場所から仙台の街を見守っています。
 

(2008年03月01日 初掲)



























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