三成に過ぎたる城。
佐和山城
所在地
別名
滋賀県彦根市佐和山町
:佐保城
築城者
築城年
:佐保時綱?
:建久年間(1190〜1199)


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■街道の交わる場所

 「治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」。「治部少」とは「治部少輔」のこと。石田三成の官途名です。中山道と北国街道の合流点を押さえる佐和山城は、その最後の一時期を石田三成の城として過ごしたことで知られています。
 佐和山の地の重要性は、早くから周辺領主に認識されていたようで、鎌倉時代初頭に当たる建久年間には、近江守護佐々木定綱の六男・佐保時綱が佐和山の地に本拠地を置いたという記録が伝わっています。これが文献上に佐和山の名が見られる最初のようです。
 戦国時代に入ると、佐和山城は六角氏の支配するところとなりましたが、江北に浅井氏が勃興してくると、その家臣の磯野貞昌が入城しました。やがて浅井氏が織田信長の前に滅び去り、信長自身も本能寺に倒れたりする中で、城を預かる武将は丹羽長秀、堀尾吉晴などと変わっていきます。
 彼ら歴代城主の後を受けて三成が佐和山城に入ったのは、天正18年(1590)のことでした。

■治部少に過ぎたるもの

 信長亡き後その後継者となった秀吉は、古来交通の要衝と認められてきたこの城の主として、彼の子飼いの武将の中でも文治派筆頭とも言える地位にいた三成に白羽の矢を立てました。信長の支配を受けるようになって以降は、佐和山城の境目の城としての性格が薄れたためか、厳重な管理体制が敷かれていたわけではなかったようです。三成が入城する頃には、城には城番が置かれただけで済まされるようになっており、城そのものもかなり荒廃が進んでいました。この地の持つ意味合いを重々認識し、秀吉からこれを任されたのをかなり意気に感じていたらしい三成は、荒れ城となっていた佐和山城に大々的な改修を施しました。三層とも五層とも言われる天守閣を築いたのをはじめ、二の丸・三の丸と縄張りの整備も進めています。佐和山の山上に天守閣を頂き琵琶湖岸に屹立するその姿は、十九万四千石の大名の城としてはあまりにも壮麗だったと伝えられ、この様が冒頭触れた「治部少に過ぎたるものが二つあり…」の歌につながったのでした。反面、実戦に影響しない城の内部は非常に質素に作られていたと言われており、三成の人となりを伝えるエピソードとして知られています。

■佐和山の落日

 慶長5年(1600)、その高々二十万石の所領しか持たない三成が二百万石をゆうに超える大大名徳川家康に戦いを挑みました。この戦いが関が原の戦いであることは言うまでもありません。関が原で行われた決戦に敗れた三成本人は、逃亡先の近江古橋村で捕縛されていますが、この時に城を守っていたのは三成の父・正継と、兄・正澄でした。もともと大坂表にいることの多かった三成に代わって彼らが佐和山城を取り仕切っていることが多かったようですが、ともあれ城は小早川秀秋軍を先鋒とする東軍の猛攻を受けて落城。城に篭っていた上臈たちが現在も女郎谷と呼ばれる断崖に身を投げ、琵琶湖の湖面を赤く染めたと伝えられるなど、凄惨な哀話を残しています。
 三成亡き後の佐和山城には井伊直政が入りましたが、間もなく彦根城の建築が始まり、佐和山城の主だった建造物は解体されて彦根城の部材となりました。現在の城跡には目ぼしい遺物は残されていませんが、人為的に削平された曲輪の跡のほか、一部に石垣が確認できます。また、佐和山西麓の東山運動公園の裏手の住宅街の一角には、島清興屋敷跡と伝えられる場所があります。
 なお、佐和山山頂へのアクセスルートとしては東海道本線側の龍潭寺登山口の方が目に付きますが、残存遺構が多く見られるのはその反対、鳥居本側から伸びる旧大手道ルートのようです。ただしこちらは獣道さながらに荒廃しているとのこと。

(2008年06月09日 初掲)





















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