山陰道を押さえる城。
篠山城
所在地
別名
兵庫県篠山市北新町
:桐ヶ城
築城者
築城年
:徳川家康
:慶長14年(1609)


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■丹波篠山

 旧丹波国は、現在の京都府と兵庫県を中心とした地域にまたがる国でした。割合に複雑な地勢を持った国で、より具体的には現在の京都府亀岡地域と兵庫県篠山地域を合わせて丹波としていたとイメージするのが直感的ですが、両地域の間には、近年まで比較的貧弱な交通路しか存在していなかったことからも分かるように、それぞれ独立性を保った盆地の中に位置しており、異なった文化習俗気候風土を持っていました。
 篠山城は、東西およそ6km・南北およそ3kmほどになる篠山盆地のちょうど真ん中あたりに築かれた城でした。戦国時代の篠山地方には八上城の波多野氏が興りましたが、織田信長とその意を受けた明智光秀によって滅ぼされてからは、篠山盆地も含めた丹波一円は光秀によって統治されることになります。光秀後は玄以系の前田氏が八上城から当地を支配しましたが、関が原の戦いを経て松平康重が八上城に入る頃には、この地の持つ戦略上の重要性が大きくクローズアップされていました。

■天下普請

 篠山城の築城は、慶長14(1609)のことです。いまだ大坂城の豊臣氏は健在で、江戸を本拠地とする徳川氏にとっては、豊臣氏と西国大名の結託は気がかりなところでした。そこで、これを監視するために西国の要所、分けても大坂城を包囲するような位置に新たな城をいくつも築き、親徳川の大名を入れていています。篠山城もそのうちの一つで、西国の15カ国20大名を動員する、天下普請によるもので、9ヶ月ほどの突貫工事で完成を見ています。
 普請奉行は池田輝政、城の縄張りは築城の名手として知られる藤堂高虎が行いました。高虎は、近い時期には自身の居城となる今治城も築いている他、全国に彼が関わった城は二十城以上残されていますが、高虎の思想には「武士は二君に見えず」と言った発想や豊臣恩顧といった意識はなかったようで、新しい時代の覇者=新しい主君である徳川氏に認められようとする気概が精力的な築城に結びついたのでしょう。選地にも抜かりなく、もともと「笹山」と呼ばれていた独立丘を利用して築かれた城だったようです。丘自体が固い岩盤だったため工事は苦労を伴う難工事だったのだとか。
 完成後の篠山城は、松平氏三代の治世後に青山氏を新城主として受け入れ、この青山氏の時に明治維新を迎えました。

■城跡と甦った大書院

 篠山城は、元来天守を持たなかった城としても知られています。完成の近づいた城が要害堅固に過ぎたため幕府の築造許可が下りなかったとか、それとは真逆に実戦本位の築城思想に立った時、天守の建造にさしたる意味がなかったからとも言われています。
 しかし現在の笹山城址には、天守台跡だけは一応残されています。他、石垣・水堀はもちろん、埋門(うずみもん)跡に馬出跡と言ったやや通好みのする城郭以降が現存しますが、訪れる観光客の目をひときわ引き、名実共に城のシンボルとなっているのが平成12年(2000)に完成した大書院でしょう。
 もともとの建物は廃城令後も健在だったものの、昭和19(1944)の火災で惜しくも焼失しました。時期的に戦災によるもののようにも思えますが、失火による焼亡だったようです。大書院はいわゆる御殿建築ですが、建物内部の様子に関する資料が不足していたため、障壁画などは一部を除き復元されていません。そのためにやや地味な印象も拭えないものの、復元・現存合わせても、全国に城郭御殿自体がさほど多くはないため、そういったものが未見ならば様子を覗いてみると良いでしょう。

(2008年08月30日 初掲)





















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