毛利元就が青少年期を過ごした城。
多治比猿掛城
所在地
別名
広島県安芸高田市吉田町多治比
:多治比城
築城者
築城年
:毛利弘元?
:明応9年(1500)頃


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■父兄の寿命を縮めたもの

 毛利元就が若き日を過ごした城、猿掛城です。国人領主の悲しさか、元就の父・弘元は足利幕府と大内氏の政変に巻き込まれており、その結果、三十代も半ばにして猿掛城に隠居しています。元就はこの時、父に伴われて猿掛城に入城しました。
 一般に、毛利元就は下戸であったと言われています。一方、わりあいに良く知られたこの逸話に対して、疑問の声を上げる人もいるようです。父・弘元、兄・興元ともに酒を良く飲む人物だったと伝えられており、その血筋に連なる元就が酒を飲めなかったとは考えにくい、と言うわけです。そして弘元・興元共に酒害で早世しており、父や兄のそうした末期を見てきた元就は、意識して酒を遠ざけようとしていたのではないか云々。元就は、孫である輝元の酒飲みに苦言を呈した事もあります。計算高く気配りも出来る元就の人となりを考えると、「本当は飲めるのだが敢えて酒を嗜まなかった」と考えた方が、それらしくも思えます。

■毛利当主・元就誕生まで

 弘元が隠居し、毛利の家督を嫡男興元に譲ったのは明応9年(1500)のことでした。隠居城として築かれた猿掛城の築城時期も、おおよそこの頃だったと考えられます。隠居とは言うものの、弘元自身は三十を少し過ぎたばかりの働き盛りで、世を倦んで表舞台から引っ込んでしまったわけではありませんでした。猿掛城は、毛利の本城・吉田郡山城と石見地方を結ぶ途上に位置していました。ある時には毛利氏の強力な後ろ盾に、またある時には重大な脅威となった、尼子氏の存在を強く意識した地選でした。同時にその城主は、当主が全幅の信頼を置ける武将である事が望ましかったことでしょう。弘元が幼い元就を連れてこの城に入ったのは、将来にわたって元就に猿掛城を任せようとする意図もあったのかもしれません。おそらく、順当に行けば元就は、宗家を支える毛利の一武将として、猿掛城主として生涯を終えていたことでしょう。
 しかし、父と同様に兄・興元もまた、酒毒に蝕まれて若死にしました。元就は兄の遺児である幸松丸を後見する立場になります。時に幸松丸は二歳。元就は幼い甥を盛り立て、佐東銀山城にあった安芸守護の後裔・武田元繁を討ち取るなど、後年の毛利氏発展の基礎を作りますが、幸松丸も九歳にして夭折してしまいます。ここに至ってついに元就は正当な毛利の当主となりました。この時点で元就は猿掛城を出て、正式に吉田郡山城に入城したと考えられています。なおこの際には異母弟である相合元綱の謀反が発生しています。
 猿掛城時代、元就は人生でもっとも多難な時期を過ごしました。

■平均的な山城

 猿掛城の廃城時期については、未だ詳らかにされていません。その性質上、尼子氏の脅威が去るまでは毛利氏の重要な拠点の一つであり続けたと思われますが、城の造りそのものは、どちらかと言えば古いタイプのそれに属するようにも見えます。
 標高367mの山頂付近に本丸、二の丸、三の丸が配され、土塁、堀切などもあり、山中には出丸や物見丸も存在するようですが、その規模は毛利の本城である吉田郡山城に比べればかなり小振りです。郡山城は本城としての役割を担う間、断続的に改修が続けられ、大規模な山城へと変貌していった城ですが、あるいはそのことから、猿掛城が現役を続けていた時期を推し量る事ができるでしょうか。
 なお、山麓には毛利弘元と夫人の墓所が残されています。

(2009年09月27日 初掲)





















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