戦国南部氏の本城。
三戸城
所在地
別名
青森県三戸郡三戸町大字梅内
:なし
築城者
築城年
:南部晴政
:天文8年(1539)


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■南部晴政の登場

 南北朝時代に陸奥と縁付いた南部氏は、戦国時代になると、三戸南部氏に南部晴政が出て、「三日月の丸くなるまで南部領」と言われる最大版図を築き上げています。根城の項においてその顛末に触れた根城南部氏こと八戸氏は、系統を異にする同族ですが、どちらが宗家であったかについては未だ議論があるようです。ただ、晴政の時代には、それまでの行きがかりはともかく、晴政が陸奥一円を治めるようになっていました。 晴政の代の天文8年(1539)、南部氏旧来の館であった聖寿寺館は、家臣の手によって火をかけられ、三戸城はこれに代わる新たな本拠地として築かれたとされています。信憑性の高い資料によらない伝承のようではありますが、比高約60m、東西約1500m、南北約400mの規模を持ち、馬淵川と熊原川に守られた本格的な城砦で、まるで強固な拠点を得たこときっかけにしたように、以後の南部氏は着実に成長していきます。

■家督を巡る確執

 南部氏の前途に暗雲が立ち込め始めたのは、元亀年間に入った頃です。嫡子に恵まれなかった晴政は、娘婿として迎えた石川高信の子・信直を後継者に据えようとしていましたが、ここに実子である晴継が生まれたため、義理の親子の間には隙間風が吹き始めました。一度は信直が廃嫡され、年少の晴継が晴政の跡を継いだものの、ほどなく横死したため、信直が26代を継承する運びとなりました。晴継の死の真相は、病死であるとも、暗殺であるとも、あるいは信直によって父ともども攻め殺されたものとも言われていますが、いずれにしても、信直の家督継承は、家臣団の中にもわだかまりを残し、やがては反信直派であった九戸政実の乱へと繋がっていきます。
 豊臣秀吉の介入によって政実の乱が鎮圧され、秀吉の奥州仕置が完了した後、奥州の押えとして黒川城に入った蒲生氏郷らの勧めもあり、信直は新たに盛岡城を築き、こちらを居城と定めました。家督争いの隙に南部氏から独立を果たした津軽氏によって津軽地方を蚕食された一方、新たな知行を得て領地が南に広がったことによるとも、南で境界を接することになった伊達政宗への備えのためだったとも言われる南遷でした。時に慶長3年(1598)のことです。
 一方、三戸城にはその後も城代が置かれ、一応は17世紀後半までは存続していたようです。

■史跡としての三戸城

 三戸城は現在、主郭部を中心に公園として整備されています。三戸の街中に入ると良く目に付く高台が城跡で、車で走っていてもさほど道に迷うようなこともなくたどり着けますが、今回の三戸城訪問に関しては、完全にそれが仇になった形でしょうか。一気に駐車場まで駆け上がったのは良いものの、もはや何の見所もなくなってしまったその駐車場こそが三戸城の本丸跡で、その周囲に土塁らしきものと、やや離れたところに模擬天守風の資料館があるのを見つけた程度。
 実は山麓部に門が復元されている他、山腹部などに石垣も残っているようですが、駐車場のある本丸からこれを探そうとするのは、かえって手間になりそうです。そのため、結局これらの遺構・建築物は未確認のまま、三戸城をあとにせざるを得ず、悔いの残る登城となりました。

(2012年02月21日 初掲)















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