真田幸村が築いた大坂城の死角を守る出城。
真田丸出城
所在地
別名
大阪府大阪市天王寺区餌差町
:堰月城
築城者
築城年
:真田信繁
:慶長19年(1614)


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■大坂城の守り

 豊臣秀吉の残した大坂城は、石山本願寺以来の要害の地でした。三方を低湿地や淀川、大阪湾によって囲まれており、そのいずれからも大軍を侵攻させるのが困難でしたが、唯一南方だけは台地上につながっており、軍略家の間では南こそが大坂城の弱点として知られていたようです。城攻め、そして城作りの名人として知られていた秀吉がなぜこのような弱点を残していたのかは定かではありませんが、それでも平和な時代にはこの点が大きな問題となる事はありませんでした。
 しかし、周知の通り大坂城は、平和裏に役目を終えた城ではありませんでした。戦国の世の幕引きとなった慶長19年(1614)と翌年の大坂冬の陣・夏の陣は、まさにこの大坂城を舞台に戦われた戦です。徳川との一大決戦を前に大坂城入りした真田幸村(信繁)は、大坂城を守備する上での死角を見落とさず、城の南方に三日月型の出城を築き、冬の陣においては攻め寄せた徳川勢に対して強く睨みを効かせました。
 信繁が築いた真田丸は、その名称から大坂城の縄張りの一部を拡張して作られた曲輪のように思われがちですが、大坂城本城からは1km以上、鉄道駅にして二駅ほどの距離が離れているため、最近では「真田丸出城」と呼ばれる事も多いようです。
 

■大戦も今は昔

 冬の陣において徳川勢を悩ませた真田丸も、半ばどさくさ紛れに本城の堀を埋め立てた事で知られる講和の時、やはり同じように破壊されており、豊臣と徳川の最終決戦となった夏の陣の際には機能しなくなっていました。夏の陣での信繁は、野戦において家康に死を覚悟させるまでに肉薄したと伝えられるものの、ついには矢尽き刀折れて、四天王寺付近に退避していた時に攻撃を受けて討ち死にしました。
 現在の真田丸付近は、地形こそ江戸時代初期そのままの丘陵地となっているものの、「真田山」や「空堀町」といった地名が残る他は、住宅や公園、学校などが出来ており、出城の存在を示すような遺構は残されていません。宰相山西公園の三光神社には、信繁の像と共に「真田の抜け穴」と呼ばれる穴倉が残されていますが、案内看板のようなものさえ満足に設置されておらず、非常に寂しい事になっています。
 秋田書店刊の「定本 日本城郭事典」によれば、写真にある六大院や大坂明星学園の対面あたり、つまり写真の向って右側の方に空堀跡があったと言う事ですが、それすらも定かではないような状況です。
 

(2008年03月01日 初掲)









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