兵どもが夢の跡?明智光秀の本城。
坂本城
所在地
別名
滋賀県大津市下阪本3丁目
:なし
築城者
築城年
:明智光秀
:永禄13年/元亀元年(1570)


お城スコープ > お城総覧 > 坂本城

■敗軍の将、兵を語らず?

 坂本城は、世に言う比叡山焼き討ちの後に明智光秀が主君織田信長から現在の比叡山東麓地域を与えられた時に築城された城です。現在まで残る遺構は皆無ですが、創建当初は信長の安土城に継ぐほど壮麗な城であったとか。それがまったく跡形もなくなってしまったのは、謀反人の城として嫌われたためなのでしょう。
 現在の城址公園の立地からも分かるように、坂本城は琵琶湖にせり出すような形で縄張りのめぐらされた水城であったといわれています。
 今は坂本城址公園として整備された広場の一角に光秀の像が立っているばかりで、寂しい限りです。坂本付近には光秀はじめ一族の菩提寺である西教寺はじめ、光秀ゆかりの場所も多くありますし、それ以外にも日吉大社や比叡山などの観光名所もあります。坂本城は、光秀にちなんだ史跡めぐりの通過点として訪れるくらいでちょうど良いのかもしれません。
 

■比叡山の懐に

 坂本城は比叡山の東の山裾に位置する城でした。実は光秀は比叡山焼き討ちという信長の方針にはかなり強く反対していました。結局のところ光秀の言が入れられることは無く、鎮護国家の大道場と呼ばれた比叡山は織田軍の放った炎に焼かれ、境内にいた者は、僧侶は言うに及ばず女子供に至るまで撫で斬りにされ、おびただしい数の死者を出したといいます。光秀は暗澹たる気分でそれを見ていたに違いありません。
 この城は安土城、長浜城、大溝城と並んで信長が琵琶湖の制水権を握る上で重要な役割を果たす城で、しかも京の町は目と鼻の先です。光秀がここに配された事実は、彼が信長からいかに重用されていたかを物語るものでもありますが、心ならずも手にかけてしまった比叡山と、主君であると同時に一面では非常に恐るべき人物であった信長の板ばさみになるようなこの土地に、新たな領地を与えられた光秀の心情は複雑だったのではないかと思います。信長にしてみれば慰撫のつもりだったのかもしれませんが。
 

■光秀は生きていた?

 明智光秀生存説とでも言うべきものは、わりと早くから語られていたようです。正史の観点から見れば取るに足らない俗説のようなものなのですが、光秀の事跡を彩る逸話として聞く分にはなかなか面白いものです。
 坂本城があるのと同じ大津市内の比叡山側に入り込んだところに「松禅院」というお寺があります。市内とは言えかなり辺鄙なところという感じなのですが、ここには光秀が寄進したという石灯籠が残されています。「光秀が山崎の合戦後も生きていた」とする言説を補強する数少ない物的証拠の一つですが、これをもってこの珍説を信じるか信じないかの判断は、各位にお任せします。変り種史跡めぐりのうちのひとつということで。

(2008年03月01日 初掲)















戻る
TOP