上杉景勝・直江兼続主従を生んだ険阻な山城。
坂戸城
所在地
別名
新潟県南魚沼市坂戸
:なし
築城者
築城年
:新田氏?
:14世紀


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■とにかく高所にある城

 よく言われる城の形態に「山城」「平山城」「平城」と言うのがあります。「お城スコープ」内でも慣例的に用いている用語で、もとは江戸時代の軍学者が使い始めたものですが、何分江戸時代起源の用語であるため、その定義は厳密にされておらず、現在でも平城は平地に築かれた城、山城は山上に築かれた城、平山城は平城と山城の中間もしくは丘陵地に築かれた城という感じに分類されています。そこでしばしば問題になるのが山城と平山城(もしくは平城と平山城)の境界で、実を言うとこれは非常にあいまいにされている部分でもあります。一体、低山と丘陵の区別はどのように行えばよいのでしょうか。私も「山城」と言う言葉を使う度、少なからず心に引っかかりを感じる事があります。ただし、「お城スコープ」内では位置づけがあいまいな「平山城」というカテゴリーを極力用いないようにもしていますが。
 坂戸城は、そんな疑問などあっさりと吹き飛ばしてしまうほど圧倒的な山城です。標高634m、比高で400m以上の坂戸山上に築かれたこの城は、日本各地にある山城の中でもかなり高所に築かれた部類に入ると言って良いでしょう。登城(登山)前にはかなり厳しい道行になることを覚悟していましたし、実際に結構な急坂を足を止めることなく登り続けても、実城と呼ばれる山頂の郭にたどり着くまでには一時間強の時間を要しました。お出かけの際、まずは御覚悟くださいと言ったところです。
 登城ルートには大まかに言って薬師尾根コースと城坂コースとがありますが、遺構はどうやら城の大手道だったらしい城坂コース側に多く見られるようです。対して、一般の登山客が多く利用し道が整備されているのは薬師尾根コースです。坂道を登りきった所にある実城付近は、削平された痕跡は見えるものの、平地部分はさほど広くなく、現在は小さなお堂が建っています。さらにその先は小城・大城と呼ばれる郭への道が続いていますが、こちらはあまり整備状態が良くない印象です。
 

■坂戸城の歴史

 坂戸城の始まりについては明らかでない部分も多いのですが、南北朝時代に新田氏の一族が築いたものだと言われています。その後、関東管領として武威を誇っていた頃の上杉氏が南魚沼地方を支配するようになると、その代官として長尾氏(上田長尾氏)が坂戸城に入れられました。この場所は上野と越後を結ぶ交通の要衝に位置しており、軍略上重要な拠点と言えました。越後守護である上杉一族と守護代の長尾為景とが合い争うようになった永正年間(16世紀初頭)には、長尾房長によって城の整備が進められたと考えられています。
 天文17年(1548)。越後の守護代長尾晴景が、弟の景虎(後の上杉謙信)と当主の座をかけて争ったことがあります。時の坂戸城主・長尾政景は晴景方に肩入れしますが、結局は家中の多くから支持を受けた景虎が家督を相続、晴景は若くして隠居し、晴景に味方した政景の越後国内における立場は次第に危ういものとなっていきます。最終的にはあわや武力衝突というところで政景が景虎に臣従、災い転じて福と為したか以来政景は謙信次将と言われるほどに重用されました。
 ところがまさに「禍福はあざなえる縄の如し」か、永禄7年(1564)、政景は坂戸城近くの野尻池で舟遊びをしている最中に一緒にいた宇佐美定満ともども溺死してしまいました。酒に酔って溺れたとか、定満が謙信の命を受け、あるいは独断で殺害したとか言われていますが、この事件には謎が多く、真相は未だに明らかになっていません。一つだけ確かなのはこの事件のため政景が死亡した事で、以後の坂戸城は政景の家臣が預かるところになりました。その立地から、越後国内における坂戸城の重要性は相変わらず高かったようです。
 上杉氏が会津へ転封となると、堀直寄が入城しますが、慶長15年(1610)に廃城となりました。
 

■兼続その愛−坂戸城編

 さて、野尻池の変事で死亡した政景には息子がいました。その政景の遺児こそが、後に謙信の後継者となる上杉景勝(初名は長尾顕景)でした。そして景勝には、坂戸城下で生まれ、生涯彼を支え続けた股肱の臣がいました。直江兼続です。つまり坂戸城は上杉景勝・直江兼続の出生地であり、山麓付近にある城主館跡の裏手には「上杉景勝 直江兼続生誕之地」と刻まれた碑も立っています。正直に言って、これがあるから私も坂戸城へ行ったようなものです。
 景勝が生まれた上田長尾家はもともと越後守護代の長尾家と同族でしたが、兼続の方は永禄3年(1560年)に、坂戸城下の長尾家家臣・樋口兼豊の息子として生まれました。幼名は与六と言います。樋口家は木曽義仲に付き従った四天王・樋口兼光の後裔と伝わる家柄です。幼い与六はその英邁ぶりを買われ、景勝の母・仙桃院(謙信の姉)から息子の近侍にと乞われ、5歳年長の主・景勝の下に召されます。
 程なく景勝は謙信の養子として迎えられ、兼続も景勝に付いて春日山へと移り住みます。
 

(2008年03月01日 初掲)



























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