もう一つの毛利氏が治めた城。
佐伯城
所在地
別名
大分県佐伯市西谷
:鶴屋城、鶴ヶ城、鶴城、鶴谷城
築城者
築城年
:毛利高政
:慶長11年(1606)


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■毛利高政という人

 佐伯城は、毛利高政によって築かれました。
 高政は、有名な毛利元就の系統ではなく、織田家に属する比較的小身の武将でした。これが後に羽柴秀吉に見いだされ、栄達の道を歩むことになります。かの備中高松城攻めの折には、秀吉が備中大返しを行うために、安芸毛利氏方に人質として出されたのですが、その際に人質の身分ながら毛利輝元と親交を深め、これが縁になって、やがては毛利氏に改姓することになったという逸話のある人物です。
 そんな高政でしたが、関ケ原の戦いでは最終的に東軍に属しました。もとは石田三成の要請に応じていたものの、西軍内部での連携拙く、行きがかり上東軍に合流することになったという、島津義弘の逆パターンのような経過をたどっています。ともあれ、一応は勝者の側に立つことにはなったので、その功があって豊後国内に新たな領地を得ました。この際、高政は栂牟礼城に入ったものの、戦国時代さながらの山城だったため、新たな居城を求めることになりました。これが佐伯城です。

■近世平山城の遺構

 佐伯藩は、毛利氏の統治が途絶えることなく続いた後、明治維新を迎えました。佐伯城も、もともと山城だけだったのが、山麓に三の丸を造り足してこちらを居所にしたという経緯があるようです。最初期の本丸には天守閣が存在していたともいわれますが、これが早い時期に焼失しました。城の相当に広い範囲を焼く火災だったと言われており、それからしばらくして三の丸が築かれている。なお、この三の丸部分の故地は佐伯文化会館となっていますが、その一角にある櫓門は、現存門です。
 ただ、この城の見どころと言えるのは山上に残る本丸、二の丸ほかの主郭部なのでしょう。建造時期もあって、立派に石垣が築かれており、中世山城とは一線を画する威容を備えています。残念ながらこちらには現存建築物はありませんが、城内の高所に立つと比較的容易に縄張りを把握することができ、往時の様子を想像しやすいでしょう。
 それにしても、どういう理由があったのか、小作りな城という印象は受けます。犬走や虎口、かつて木橋が架けられていたのであろう天守台直下の通路など、かなりコンパクトに作られています。見る者を圧する権威の象徴としてのみ築かれたのではなく、かなり実戦本位の設計思想があったのかもしれません。

(2020年03月05日 初掲)

















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