虚実ないまぜ雑賀衆の城。
雑賀城 附弥勒寺山城
所在地
別名
和歌山県和歌山市和歌浦中3丁目
:妙見山城
築城者
築城年
:鈴木重意?
:16世紀


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■雑賀孫市

 織豊期の紀伊国に雑賀孫市あるいは孫一という人がいました。伝説的な人で、その詳細なところを伝える史料は多くありません。研究者の間では、総じて紀伊の土豪であった鈴木氏一族の事績を統合して作り出された人物像であるとする考え方が有力です。同時代的な資料の頃から紀伊雑賀城を本拠とした大名であるとされ、巷間広く流布されましたが、学術的にはおよそ信じるに足らない誤伝に過ぎません。実在の鈴木氏は、雑賀衆と呼ばれた紀伊の国人領主たちの中の一氏族に過ぎず、その居城も雑賀城から10匐瓩離れた中野城であったとされています。
 そんな具合に、いびつな形で有名になってしまった感のある雑賀城も現地を訪ねてみれば、その実態に似つかわしい小城でした。いや、そもそも鈴木氏と雑賀城の関係が定かではありません。内情に明るくない同時代の記録者が、紀伊の領主たちを十把一絡げに「雑賀衆」と呼び、その頭目と言われる雑賀孫市なる人物の根拠地を同名の雑賀城に求めて後世に伝えたことから、今日では雑賀孫市とニアリーイコールと目される鈴木氏の居城が雑賀城であったかのように言われるようになったのでしょう。

■天下人と雑賀衆

 和歌山市沿岸部の小丘上に築かれた雑賀城跡には、遺構らしきものはほぼ何も残されておらず、しかも消防署の望楼をはじめ近代以降の建造物が建っているため、雑木林風の現況に反して、かなり後年の手も入っていると考えなければなりません。見学していても見どころを探すのが厳しい城です。強いて言うなら、雑賀衆の特異な性格に思いをいたす良いきっかけとなるのには違いないでしょうが。
 鈴木氏含む雑賀衆は、石山本願寺との決戦に苦心惨憺した時期の織田信長を悩ませています。紀伊の国情は、以前別の機会に触れたことのある伊賀のそれと似通っており、在地の小領主が割拠していましたが、焦土作戦的な攻撃の前に沈黙した伊賀の場合とは異なり、皮肉にも親信長と反信長の二派が反目しあったことで、紀州征伐が絶滅戦の様相を呈することはありませんでした。鈴木氏は親信長派でしたが、本能寺の変があり、信長の事業を受け継ぎさらに強大な権力となった秀吉に対しては反発しています。しかし、信長との関係の中で鈴木氏を含む雑賀衆は消耗しており、ついに在地領主としては消滅するに至りました。雑賀衆は鉄砲の扱いに長けた集団であったと言われ、もともと傭兵的性格も帯びていたとされることから、自立した領主としての存続が不可能となった時期、その戦闘員たちは各地の大名家に仕官先を見つけて行ったとも言われています。

■弥勒寺山城

 さて雑賀城は、孫市候補の一人に比定される鈴木重意によって築かれたものとも考えられています。しかし、良質の史料上にその名が見られる機会は多くなく、いつ頃まで存続したかも詳らかでありません。また、その規模からしても、信長、秀吉らとの決戦がここで戦われたわけではなさそうです。雑賀衆の一つの拠点ではあったのでしょうが、より主要な戦場となったのは程近くにあった弥勒寺山城の方と考えるべきなのでしょう。
 弥勒寺山城もやはり高台の城ですが、雑賀城よりも周辺地との比高差があり、より戦国山城らしい佇まいを見せています。現在は秋葉山公園となっていますが、綺麗過ぎる公園で、やはり遺構はほとんど残存していません。その代わりに、その戦史を伝える看板が簡素ながら立てられており、史跡として訪ねるに値するのは、むしろこちらなのかもしれません。園内には雑賀衆と所縁の本願寺顕如の卓錫所碑も立ち、この城跡のある秋葉山をめぐる地域は御坊地区と呼ばれているようです。

(2015年02月03日 初掲)





















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