斎藤道三隠居城、そして最期の地。
鷺山城
所在地
別名
岐阜県岐阜市鷺山
:なし
築城者
築城年
:佐竹秀義?
:文治年間(1185〜1190)


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■鷺山城主代々

 鷺山城は鎌倉時代に築かれた歴史の古い城でした。後の室町時代には美濃守護・土岐氏の居城となりましたが、土岐頼芸の時、配下であった斎藤道三の下克上に遭い、この城を追われました。道三が間もなく居城を稲葉山に移したために、この城は美濃の歴史の表舞台からはフェードアウトしていきましたが、道三が息子義龍に国主の座を譲ってからは、道三自身の隠居城として使われる事になりました。
 なお史実に従うのであれば、この隠居のタイミングではじめて道三が「斎藤道三」となるのですが、この人物は戦国時代にあってもかなり頻繁に改名を繰り返し、それを正確に既述していくのは煩雑で、しかもかえって混乱を招きそうなので、ここでは表記を「斎藤道三」に統一しています。
 

■斎藤道三の隠居城

 この城は、周囲の平地の中に独立して存在する50mほどの丘に作られた城です。あまり戦国城塞向きの地形とは思えません。稲葉山城(岐阜城)があまりに峻険すぎるためにそのように見えるのかもしれませんが、現在の鷺山城址にも遺構らしきものは残されていないため、単なる里山のようになっています。戦国の史跡という雰囲気ではありません。
 蝮とあだ名されるほどの非情さで知られた梟雄・斎藤道三の最期は、自身の血塗られた下克上人生を象徴するかのごとく、息子である義龍との戦いの中で訪れました。かなり人口に膾炙されたものですが、義龍の生母・深芳野は、道三が追った主君・土岐頼芸の側室だった女性で、義龍の実父は道三ではなく頼芸だったのではないかという逸話があります。そして、義龍が父を弑逆したのも、自分の出生の秘密を知ったためであるとも言われています。
 道三にとって、息子との対決は寝耳に水の出来事だった事でしょう。鷺山城は、その立地や規模などを鑑みるに篭城向きの城ではありません。この城を隠居所に定めた事は、見ようによっては道三ほどの人物には似つかわしくない痛恨の失策であったようにも取れますが、逆に考えると道三本人には、義龍に対して何らのやましさも持っていなかったことの現れのようでもあります。
 

■親子の相克

 義龍が道三を倒した理由には未だ不可解な点も多いのですが、稲葉山城(後の岐阜城)に比べて格段に防衛能力の劣る城を居城にしたため、道三は息子の攻勢に長くは持ちこたえられずに討ち取られる結果になりました。
 道三討ち死にの頃、娘婿にあたる織田信長が道三救援のために援軍を率いて濃尾国境近くにまで迫っていました。鷺山城よりも今少し篭城向きの城に道三が入っていたのなら、その後の歴史はどう変わっていたのでしょうか。
 信長でさえも、結局は義龍の存命中に稲葉山城を攻め落とすことは出来なかったのです。義龍は早くに病死し、その子・龍興が凡将であったために信長がそこを刺した形になるのですが、それは別の話。戦国の中でも傑出した謀将たちが美濃を舞台にがっぷり四つで戦いを繰り広げる展開、面白いと思うのですが、まあそれは傍から見ている他人の考え方であって、当人たちにしてみればたまったものではないでしょう。
 

(2008年03月01日 初掲)















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