葉隠れ武士の城。
佐賀城
所在地
別名
佐賀県佐賀市城内二丁目
:亀甲城など
築城者
築城年
:鍋島直茂
:慶長13年(1608)


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■五州太守、倒れる

 「武士道とは死ぬことと見つけたり」。しばしば耳にするこの言葉は、江戸時代に記された「葉隠れ」の一節です。「葉隠れ」は佐賀藩士に武士としての心構えを説きました。そんな佐賀藩士の本拠地・佐賀城です。
 佐賀藩の事実上の開祖である鍋島直茂は、戦国九州の一角に武名を轟かせた大名・龍造寺隆信が右腕と頼んだ武将でした。戦国初期の九州では豊前の大友氏の勢力が強く、肥前の龍造寺氏は強大な大友氏を前にして吹けば飛ぶほどの勢力しかありませんでしたが、それでもこの巨大勢力を前にして、隆信と直茂は巧みに立ち回り、着実に地歩を固めていきます。そして彼ら主従にとって幸運だったのは、目の上のたんこぶであった大友氏が、日向国耳川において、新進の勢力であった薩摩島津氏にまさかの大敗を喫したことでした。この敗戦で大友氏の威信は地に落ち、隆信はこの間隙をついて九州北部の大友氏勢力圏を一気呵成に切り取っていきます。「五州太守」、あるいは「肥前の熊」などといった隆信の異名は、この時期の彼の活躍に起因するものといえるでしょう。
 隆信・直茂主従にとって不運だったのは、大友氏を破った島津氏の勢いが天を衝くほどのものだった事でした。島津氏は、九州北部で龍造寺がそうしたのと同じように、南から九州を侵食していきます。隆信が島原半島の有馬氏を平定するべく南下作戦を開始し、今まさに森岳城(後の島原城)にまで迫らんとしたときに、島津は有馬の援軍として龍造寺の前に立ちはだかりました。もっともこの段階では、兵力において龍造寺軍は島津・有馬連合軍に勝っていたのですが、剽悍な薩摩隼人との戦いにおいて隆信は痛恨の失策を犯してしまいます。沖田畷と呼ばれる細道に、配下の大軍ともども押し入った隆信は、そこで島津軍から弾丸の雨を浴びせられ、討ち死にの最期を遂げています。百年以上も続いた日本の戦国時代の中で、戦場において敵兵の手にかかる形で最期を迎えた名のある大将は、桶狭間の今川義元と沖田畷の龍造寺隆信ぐらいのものと言って良いでしょう。

■鍋島氏の台頭

 耳川で一敗地にまみれた大友氏もそうでしたが、隆信亡き後の龍造寺氏も、意気天を衝く島津氏の前に敵ではありませんでした。一代の英雄を失った龍造寺の一族には、新たな大敵島津を向うに回して戦えるほどの傑物は存在しませんでした。勢い、龍造寺の運命はかつて隆信と共にこの家の舵取りを行った直茂の双肩にかかることになります。直茂はこの難局を、当時中央で天下を掌握しようとしていた豊臣秀吉に誼を通じることで乗り越えようとします。そして事実、この直茂の目論見は成功し、さしもの島津氏も天下人の軍勢を前にしては時間の問題で降伏するより手はありませんでした。
 こうして龍造寺家中における直茂の影響力はいや増して行き、ついにはその政治的実権を完全に掌中に収めることになります。このような龍造寺家中の実態は傍目にも明らかだったようで、秀吉も、そして江戸幕府を開いた徳川家康も、肥前の実質的支配者が直茂であることを見抜いて、彼と彼の嫡男勝茂を龍造寺一門に代えて佐賀藩の藩主としました。一連の藩主交代劇が、直茂個人の野心に端を発する政権の簒奪だと言えるのかどうかは定かではありませんが、結果的に主家に取って代わることになったのだけは動かしがたい事実であり、こうした経緯が「鍋島の化け猫騒動」という講談を生むことになります。そして、龍造寺の時代の終焉を宣言し、その記憶を払拭するかのごとく、旧来龍造寺氏の居城であった村中城は、その名も佐賀城として面目を新たにすることになりました。一方、鍋島氏が名実共に龍造寺氏に取って代わり、また元和の一国一城令が発布されたことを受け、それまで鍋島氏の居城であった蓮池城は廃城となりました。

■幕末維新の佐賀城

 佐賀城は鍋島氏十一代の居城として存続した後、明治維新を迎えています。その維新の時に、佐賀地方を舞台とする士族反乱が発生しました。いわゆる佐賀の乱です。それ以降続発した士族反乱の嚆矢となったこの事件では、佐賀城は江藤新平ら率いる反乱軍によって占拠されていますが、西南戦争時の熊本城のような大規模戦闘には巻き込まれず、乱の首謀者らは比較的短期間のうちに佐賀の地を追われています。佐賀城跡に現存する「鯱の門」には、その時に付いたといわれる弾痕が残されています。門の辺りには、幕末の佐賀藩が保有していたという当時の最新兵器・アームストロング砲が展示されており、やはり何かというと幕末維新にトピックの多いお城という印象を受けます。まあ、何と言っても薩長土肥の一角なので。
 現在の本丸には、在りし日の佐賀城本丸御殿を模して建てられた佐賀城本丸歴史館が設置されています。やはりここも幕末維新に力点を置いた展示を行う博物館のようですが、例によって時間に余裕のない日程の中で訪問したために展示物については未確認です。なお、今日佐賀城に関連した施設が置かれているのはこの本丸の一画だけであるものの、往時の佐賀城は表高三十五万七千石の大藩に似た規模を誇っており、水堀に囲まれた現在の街区からもかつての城の規模がしのばれます。

(2008年04月01日 初掲)





















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