日向伊東氏最盛期の居城。
佐土原城
所在地
別名
宮崎県宮崎市佐土原町上田島
:鶴松城
築城者
築城年
:田島氏
:14世紀


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■伊東氏の日向入国

 伊東氏は、その名が示すとおり伊豆に所領を持つ東国武士でした。源頼朝の寵臣にして、曽我兄弟の仇討ちで落命した工藤祐経の末裔にあたります。曽我兄弟の仇討ちは、伊東一族の内紛の過程で生じたもので、討った曽我兄弟も、討たれた祐経も本来は伊東氏の血脈に繋がっていました。
 祐経の子・犬房丸こと伊東祐時は、長じて頼朝の御家人となり、日向の地頭職を得ました。この伊東氏が在地支配に乗り出したのは室町時代以降のことで、同じく鎌倉幕府の御家人を出自とし、大隈・日向の守護職をも兼任していた薩摩の島津氏と争いながら、日向国で勢力基盤を築いていきます。ちなみに、全国の荘園・公領を管理する役人が地頭であるのに対し、守護は地頭も含めた任地の行政・軍事を総括する職でした。地頭由来の伊東氏と、守護由来の島津氏の中世における関係性には興味を引かれるものがあります。
 その過程はまず順調なものだったと言って良く、最盛期となる戦国時代には、四十八城と言われる城郭ネットワークを日向国内に築き、その支配体制を確立しました。佐土原城は、四十八城の要に当たる城で、伊東氏による日向支配の最後期には、その本城となっていました。

■島津氏との闘争

 佐土原城はもともと、伊東宗家の代官として日向に入っていた田島氏によって築かれたものでしたが、伊東氏の勢力が優越してくるころには、宗家の持ち城となっていました。伊東氏が全盛期を迎えた十代義祐の頃には、伊東氏旧来の居城であった都於郡城が焼失したこともあり、新たな本城に選ばれています。もっとも、天文6年(1536)には佐土原城も火災によって焼け落ち、一時伊東氏本城の座を宮崎城に明け渡しましたが、再建と大々的な改修を受け、堅固な城として復活しました。
 永禄から天正の時期にかけての伊東氏は、薩摩・大隈から伸びてきた島津氏との本格的な対決に突入していました。戦況は一進一退の状況が続いたものの、三州統一を目指して士気も旺盛な島津氏に対し、佐土原城を中心にして小京都と呼ばれるまでの城下町を形成した伊東氏は、同様の文化政策を取ったいくつかの大名と同じ轍を踏んで文弱化が進んでいたと言われており、その辺りが成果のあがらない島津氏戦に繋がっていたのかもしれません。
 致命傷となったのは、木崎原の戦いで、島津貴久の死につけ込む形で島津義弘の守る加久藤城に攻め寄せた伊東勢は、城兵の十倍に相当する兵力を持ちながら大敗し、多くの将兵を失いました。この敗戦で求心力を失った伊東氏方の支城は、次々と島津氏の手に落ちていきました。それはさながら、本城佐土原城を守る幾重もの防衛線が一枚一枚はがされていくような有様でしたが、佐土原城そのものは最後まで大きな戦いの舞台になることはありませんでした。四十八の支城を、ある時は力攻めで、ある時は調略で抜かれた義祐は、すでに自家に昔日の勢いがないことを悟り、親戚筋に当たる豊後の大友宗麟を頼って城と領国を捨てることになりました。
 以後の佐土原城は、紆余曲折を経ながら、明治維新まで事実上の島津支藩の城として続きました。最盛期の佐土原城は、山城部分と山麓の居館とで構成されていたようですが、山城部分は寛永2年(1625)に廃城となりました。

■復元御殿・鶴松館と山城跡

 現在の佐土原城は、観光映えする施設として、山麓に復元された城主の居館・鶴松館の方がよく知られています。発掘調査に基づいて推定復元された鶴松館は、無料施設ながら風格を感じさせる御殿建築となっており、内部では土人形の展示も行われています。最近の城跡でよく見かけるタイプの復元建造物と言えます。
 一方で山城部分のアピールは弱く、旧城地を訪ねる多くの人からも、特に気に留められることがないようですが、鶴松館の裏手の山には、わりと大規模な山城跡が残っています。山城遺構としての保存・展示状態は、鶴松館に比べるとかなり地味な印象ですが、堀切等の各種遺構はあちこちに残されています。随所には、マンガ絵を使った遺構の解説板も設置されており、子供向け学習施設の雰囲気もあります。なお、山道を登り切ったところにある本丸跡は、旧時代の土木工事の跡こそ薄れているものの、かなりの広さがあり、城本来の規模の大きさが偲ばれます。

(2012年08月16日 初掲)





















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