陶晴賢の居城。
若山城
所在地
別名
山口県周南市大字福川
:なし
築城者
築城年
:陶氏
:15世紀


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■大内の重臣

 若山城は、中国地方の西部から北九州にかけてその威力を誇った大内氏の重臣・陶氏の居城です。一般には、陶一族の中でも最も史上に名高い陶晴賢の居城と言った方が通りが良いでしょう。陶氏は大内氏の遠縁に当たり、そのこともあって主家から重く用いられていました。その中でも、晴賢と父である興房の頃が、大内重臣としての陶氏の最盛期でした。
 天文10年(1541年)、出雲の雄であり、大内氏の宿敵であった尼子晴久による毛利氏の吉田郡山城攻めが勃発しました。世に言う吉田郡山城の戦いです。戦は晴賢(当時の名乗りは隆房)を含む大内氏の援軍を得た毛利氏の連合軍が勝利を収め、大内氏との勢力境であった石見を中心に、尼子氏の求心力は急速に失われていきました。

■晴賢謀反

 これを好機と見た大内氏は、今度は逆に晴賢を将とする尼子攻めの戦を起こしますが、今度は逆に月山富田城の戦いで大敗を喫してしまいます。その影響もあって、時の当主だった大内義隆は、巷間よく知られるように文弱傾向を強め、それに反比例して武断派であった晴賢との間柄は冷え切っていきました。
 とどのつまりはこのことが、晴賢をして義隆を攻め滅ぼさせしめた大寧寺の変につながっていきます。事実上の謀反ですが、大友氏より義隆の猶子であった義長を傀儡君主として担ぎ出し、その一方で家中の実権を掌握します。やがて晴賢は、彼との対決姿勢を鮮明にした毛利元就と一戦に及ぶことになるわけですが、厳島の戦いとして名高いこの決戦に敗れた晴賢は自害。大勝の余勢を駆って防長への侵攻を開始した毛利氏の前に若山城は落城し、そのまま廃城とされました。

■郷土史家の愛

 城跡としての若山城は、比較的単純な構成のものと言えます。規模も、さほどには大きくありません。山城らしく、高低差のつけられた複数の曲輪の中で、二の丸・三の丸と本丸の間に位置する斜面に壇床(だんどこ)と呼ばれる小規模な帯曲輪状のものがあるほか、畝状竪堀なども備えています。このほか、やや奥まったところにある西の丸には、石垣も残っていると言うことですが、滞在時間が足りなかったためにそこまで確認はできませんでした。
 ところで、山麓を走る国道2号から、城跡へと向かう道の途中には、夥しい数の木札がぶら下げられています。最初こそ、城の歴史にちなみ、地元の保存会か何かが読んだ句が掲げられているのかと思っていましたが、どうやらそうでもないようです。城や歴史とは全く関係のない短歌・俳句(「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」とか、正岡子規のものがいくつかあったものの、子規とこの地は特にこれと言うつながりはありません)に始まり、尻切れトンボとなった童謡や歌謡曲(「ふるさと」「青い山脈」など)の歌詞、「忘却とは忘れ去ることなり」(ドラマ「君の名は」の冒頭ナレーションだそうです)とかの流行語(?)、城とは関係のない格言、維新志士の生没年など、単なる製作者の好きな言葉や思いつきで書かれたと思われる内容も相当数含まれており、いささかシュールですらあります。

(2014年03月27日 初掲)















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