安芸武田氏の本城。
佐東銀山城
所在地
別名
広島県広島市安佐南区祇園町
:銀山城
築城者
築城年
:武田信宗
:14世紀


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■武田氏の一族

 かの武田信玄を輩出し、戦国の世に勇名をはせた甲斐源氏武田氏の出自をたどると、源氏の一門であった新羅三郎義光にまでさかのぼります。河内源氏を称していた義光の系譜は、代々甲斐守の任に就いていましたが、義光の代に初めて甲斐へと赴任したと言われています。そして義光の子・源義清の時に常陸国武田郷を支配していた縁で「武田冠者」を名乗ったのが武田姓の始まりだったとされますが、公式に武田の姓を使用するようになったのは、源平合戦のハイライトである富士川合戦において、戦陣にあった源頼朝の下に参じた武田信義だったと見られます。
 とまれ、武田氏が押しも押されぬ名門だったことは間違いありません。鎌倉幕府将軍の遠縁だったこともあって幕府内で重きを成したか、信義の子に当たる信光の代には、甲斐守護に加えて安芸守護にも任命されました。この任官は、承久3年(1221)に勃発した承久の乱の論功行賞だったとも言われています。これが武田氏と安芸国の縁の始まりです。銀山城が築かれたのは、信光から数えて4代になる9代信宗の時代のことで、元寇に備えるための築城でした。これより銀山城は、安芸武田氏滅亡の時まで三百余年にわたりその居城として使用されることになります。ただし、武田氏の本拠地はあくまでも甲斐であり、安芸へは本国から守護代を派遣するという、在地支配の体制が取られました。武田氏にとっての安芸は、飛び地に過ぎない遠隔地でした。

■安芸武田氏の分派

 安芸の領国経営を専門して行い、安芸武田氏と呼ばれるようになる分派が興されたのは、10代信武の次男・氏信によってでした。もっとも、甲斐の場合とは違い、安芸守護は代々武田氏が務めていたわけではありません。さらに南北朝期の動乱の影響を受けて安芸国内が政情不安定に陥ったこともあって、安芸武田氏が発足した氏信の代の内に、安芸武田氏は安芸守護の座から降りざるを得なくなります。これ以降、安芸武田氏は銀山城を中心とする佐東郡守護の地位に甘んじることになります。なお、余談として若狭一国を支配した若狭武田氏は安芸武田氏から興ったものでした。
 武田氏後の安芸守護には今川氏や大内氏が任命されていますが、元来領国が隣り合っていた大内氏と武田氏の折り合いは悪く、両氏の間は次第に険悪になっていきます。武田氏側が遠交近攻の戦略に則って同じく大内氏を敵とする出雲の尼子氏と結べば、大内氏は自陣営に属する安芸の国人領主・毛利氏や吉川氏をけしかけて武田氏に当たらせました。
 永正14年(1517)、先年からその帰属が争われていた有田城を攻略するために、武田元繁は兵を起こしましたが、この戦いが初陣となる毛利元就は武田軍を相手に奮戦、ついに元繁自身も討ち死にの最期を遂げました。以後、安芸武田氏の勢力は急速に衰微して行き、後ろ盾と頼んでいた尼子氏の斜陽化に伴って安芸国内から放逐されることになります。
 なお、毛利の外交層として知られる安国寺恵瓊は武田氏の一門だと伝えられていますが、その出自には未詳の部分も残されています。

■毛利氏と銀山城

 当時は格上の敵だった武田氏の当主を敗死させた毛利元就は、やがて中国地方を中心にして、北九州や四国の一部までを勢力下に置く大大名へと成長しますが、その元就も晩年近くになると銀山城を隠居城としようとしていたとも言われています。毛利氏累代の居城吉田郡山城は、元就自身の改修の甲斐もあって一大城砦へと変貌を遂げていましたが、城下は狭隘で、国内屈指の巨大勢力に成長した毛利氏が本拠地を営むにはいささか不便に過ぎるきらいがありました。元就の構想は結局実現の運びとはならなかったものの、その思想は孫輝元による広島城へと受け継がれて行きます。
 標高410mの武田山に築かれた銀山城は、初期の戦国山城の特徴をよく残した城だと言えます。全体で50ほどの数になるという曲輪跡や、堀切、近世城郭に見られる枡形の萌芽とも言える巨岩を配した御門跡などの遺構が見られますが、他の毛利氏系の山城に見られるほど大掛かりな土木工事の痕跡は乏しく、毛利氏の支配下に組み込まれた段階では、この城は戦時拠点としてはさほど重要視されなくなっていたのでしょうか。山頂に近づくにつれ、武田山は大きな岩の露出した険しい山容を見せるようになっていきますが、あるいはこの天然地形ゆえに大きな工事を施す必要がなかったか、施すことができなかったのかもしれません。
 城跡の各所からは広島市へ方面への展望が良く、瀬戸内海の様子も一望の下にできます。この城に目をつけた元就の心情もいくらかは理解できるような気がします。また、ハイキングにも好適の山です。 なお、「銀山城」の名を持つこの城は、その昔銀を産出したとも言われていますが、あまり確度の高い情報ではありません。「金山城」と言った名の城が全国に多いことを考えれば、起源説を求めるうちに生み出された仮説に過ぎない可能性もあります。

(2008年07月21日 初掲)



























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