大和最大級の山城。
龍王山城
所在地
別名
奈良県天理市柳本町
:十市城
築城者
築城年
:十市遠忠
:16世紀


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■別城一郭の大規模山城

 大和国(現在の奈良県)は、山に囲まれて海を持たない山国でした。奈良盆地が域内の大半を占めるようなイメージがありますが、盆地の位置は北半分に偏しており、南半分に広大な山地が広がると言うのが、今の奈良県を示した地図から見えてくる大和国の姿です。
 筒井氏や松永久秀らが争った中世の動乱は低平な奈良盆地を中心にして巻き起こりましたが、こういう地勢ですから、規模の大きな山城が存在する事に何らの不思議はありません。ここで触れる龍王山城は、そうした山国・大和の中でも最大級の規模を誇る山城で、大和国内では信貴山城、椿尾城と並び称されます。
 もともと大和の有力国人・十市(とおち)氏の居城だった龍王山城は、北城と南城という二つの城を合わせて一つの城域を成すような構成の城で、大和最大級と言われる規模は、「別城一郭」と呼ばれるこのような縄張りによるものです。

■城主・十市氏の盛衰

 築城年代は特定されていないものの、十五世紀末から十六世紀初頭に築かれたのが最初であると推測されています。十市遠忠はここ龍王山城に籠もって木沢長政に対抗しましたが、天文11年(1542)に長政が太平寺の戦いで討ち死にすると、繰り上がる形で十市氏が大和国内の最大勢力となりました。しかし、大和国内には筒井氏という強力なライバルの存在があり、さらには長政に代わって台頭した三次長慶を食って強大化した松永久秀が出現し、十市氏の権力基盤は揺らぎます。龍王山城はついに、久秀の一派によって陥れられました。
 とは言え大和の有力国人、後には久秀の息子・久通と十市遠勝の娘の縁組も成立しています。しかし久秀も、最後には悪運尽き果てて織田信長の前に敗死し、龍王山城は間もなく廃城とされたと考えられています。一方、かつてこの城を支配した十市氏は、今度は筒井氏麾下の将として長らえる事になりましたが、江戸時代になるとその筒井氏が改易処分にあっており、数奇な運命をたどった十市氏の末を追う事も出来なくなります。

■人気のハイキングコース

 龍王山城へは車でのアクセスも可能で、今では主郭部近くまで登る事ができます。車を停めてから北城もしくは南城へと歩く事になりますが、車を用意できなかった私はJR柳本駅から徒歩で登頂。崇神天皇陵など古代の遺跡を横に見ながら長岳寺を巻いて龍王山の方を目指して歩いて行くと、道すがらにはハイカーと思しき人たちの姿も。どうやら龍王山は、「山の辺の道」の一部として、京阪奈では良く知られたハイキングコースのようで、特に南城跡からの夜景が有名なようです。
 そもそも山頂の城跡周辺は、山上ながら古くから交通の結束点となっていたらしく、山頂への道は切り通しのようになっています。ここを三十分以上も歩き続けると鞍部にたどり着きます。前述した自動車道の終点もこの付近です。駅からだと休まず歩き通して1時間ほど。急登はほとんどなく、山歩きとしては楽な部類に入ります。

■二つの横顔

 龍王山登山道の終点は南城に設定されており、本丸に至るまで良く整備された道が続きます。南城は山頂付近に連郭式の縄張りを持っており、なるほど眺めは良いですが、簡素で小規模な城です。龍王山城はもともと南城から発生したものだとも考えられており、見方を変えれば、土木技術や築城理論が未発達な時期を引きずった、古風な山城と言えるのかもしれません。
 対する北城は、最高所の本丸を中心に大小の曲輪を配置した輪郭式の城です。規模が大きいのはもちろんのこと、石垣、櫓跡、虎口、土塁、堀切と言った遺構が見られ、城跡としてはこちらの方が変化に富み、見所があると言えるでしょう。展望も全く期待できないわけではありませんが、この点は南城に劣り、それ故か訪れるハイカーの数も控えめな様子。
 とは言え、山行が目的のハイカーはともかく、お城好きなら南北両方の城跡を見ておいて損はないでしょう。

(2009年10月24日 初掲)





















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