伊予の要衝に位置する城。
大洲城
所在地
別名
愛媛県大洲市大洲
:地蔵ヶ嶽城、比志城
築城者
築城年
:宇都宮豊房
:元徳2年(1330)


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■伊予の要衝

 肱川に面した丘陵上に建つ大洲城の歴史は、元徳2年(1330)の伊予守護宇都宮豊房による築城に始まると言われています。当時、城の名は地蔵ヶ嶽城と言いました。言い伝えによれば、城のあった場所にはもともとお地蔵様が祀られていたそうで、地蔵ヶ嶽の名はそこからきているのだとも。
 戦乱の時代、伊予国には大勢力が育ちませんでした。大洲は、道後と宇和を結ぶ大洲街道・宇和街道の接続点であるのに加え、土佐方面への抜け道である梼原(ゆすはら)街道の先に位置する土地だったこともあり、在地の諸勢力がしのぎを削る時代になると宇都宮氏は、道後の河野氏、宇和の西園寺氏、豊後の大友氏に、土佐の一条氏や遅れて勃興してきた長宗我部氏など近隣勢力との離合集散を繰り返すことになりました。八代豊綱の時には、娘婿にあたる一条兼定と結び、河野・西園寺両氏との決戦に及んでいますが、河野氏の救援のために到着した毛利氏の軍に敗北しました。豊綱自身は囚われの身となって備後に送られ、伊予宇都宮氏は滅亡しました。

■藤堂高虎による改修

 宇都宮氏が去った後の地蔵ヶ嶽城には宇都宮の家臣にあたる大野直之が入り、河野氏および長宗我部氏の間で帰属の変転がありましたが、長宗我部氏時代に豊臣秀吉による四国征伐があり、主筋ともども秀吉の軍門に下りました。もっとも、この地蔵ヶ嶽城は小城一つとはいえど小早川隆景軍三万の攻撃にも容易には落ちることなく、それに先立つ宇都宮氏時代にも堅牢な守りで城主を守ったことがあり、交通の要衝を抑える地の利もあって伊予に新体制が敷かれることになっても引き続いて利用されることになりました。もちろん時代の移り変わりに合わせて装いを変える必要もありましたが、城の改築は宇和島城主となっていた藤堂高虎によって行われました。後年に高虎が伊賀へと転封になると脇坂安治が入り、さらにその後を受けた加藤貞泰以下加藤氏が十二代続いて明治維新を迎えました。この頃、地名が旧称の「大津」から現在の「大洲」に改められたと考えられています。

■復元天守と現存櫓

 大洲城は、一名を「比志城」とも言います。城の建築に際しては肱川の治水工事が難航したために、これを完遂するために人柱を立てたという伝説が残されています。伝説によれば、その人柱となった娘の名こそが「おひじ」で、彼女の望みで城と川に彼女の名前を残したと言われています。
 おひじの尊い犠牲に守られた城の建物は、明治維新を越えても天守や櫓が残りましたが、老朽化の進んだ天守は明治21年(1888年)に取り壊されました。一旦失われた天守の復活は平成16年(2004年)を待たねばなりませんでしたが、天守以外の櫓四基(台所櫓・高欄櫓・三の丸隅櫓・苧綿櫓)は、藩政期からのものが現存しています。特に台所櫓と高欄櫓は大洲城の小天守とも言われるもので、細部まで正確に復元されたという四層天守閣と共に、大洲の町のシンボルとなっています。

(2008年05月18日 初掲)























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