「のぼうの城」を訪ねて。
忍城
所在地
別名
埼玉県行田市本丸
:なし
築城者
築城年
:成田氏
:15世紀


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■湿地帯の城

 「のぼうの城」と題された本が書店に平積みされているのをはじめて見かけたとき、やはり怪訝に思った記憶があります。「のぼう」の意味するところが良く分からず、「『野望』のことなのだろうか」などと考えてみたりもしましたが、後に分かったところでは、「のぼう」とは「でくの坊」を縮めた物で、実在したとある武将に対して同作中でつけられたあだ名との事。その武将というのが成田長親で、その城とは長親が城代を務めていた忍城のことなのでした。つまり、同作は石田三成の武名を高からしめるどころか貶めることになった、忍城攻めを小説化したものということのようです。
 忍城は、元来が山内上杉氏の家臣であった成田氏によって築かれた城で、戦国時代初期から成田氏はこの城を居城としていました。もともと湿地帯の中に築かれた城だったため、浮き城の異名もあるほどでしたが、その天然地形のゆえに、攻めるに難く守るに易い城だったようで、北条氏康の軍勢を前にしても粘り強い抵抗を見せたことが記録に残されています。
 忍城の位置する場所は、旧主・山内上杉氏、その意を受けて関東に侵攻した上杉謙信、そして小田原北条氏の勢力が、ぶつかり合う場所に当りました。必然的に騒乱の最前線に立つことが多かった成田氏は、度々主家を変えています。もともと、北条氏とは近しくなかったようですが、一度はその陣に参じた上杉謙信との間でも仲違いがあり、北条氏の部将ということで定着しました。成田長泰の時、上杉謙信が鶴岡八幡宮で関東管領職に就いた際、諸将の前で辱めを受けることがあったため、謙信が領国に帰った後で北条氏に走ったなどとも言われています。織田氏の勢力が関東にまで及んでくると、その将である滝川一益の麾下に入ったこともありましたが、本能寺の変後に行われた神流川の戦いで、一益が北条氏直に敗れると、北条氏の下に帰参しています。

■忍城合戦

 それから十年弱の時が流れた天正18年(1590)。織田信長の後継者として天下統一まで目前となった豊臣秀吉が、小田原征伐の軍を起こすことになりました。秀吉子飼いの大名はもちろんのこと、各地の大名に号令をかけ、総勢二十万余に及ぶ大軍勢が、陸海問わず、各方面から北条氏の領内に殺到しました。小田原城を囲む多くの支城にも、豊臣方の分隊が取り付きましたが、忍城を受け持つことになったのが、石田三成でした。湿地帯に囲まれた忍城を陥れるために採用された戦術は、かつて秀吉が備中高松上攻めのときに用いたのと同じ水攻め。力押しに攻めるのとは違った意味での多くの労力と財力を必要とするこの戦術が用いられたのは、天下人の戦を印象付けるためのデモンストレーションの意味合いが強かったのかもしれませんが、水をせき止めるはずの堤防の決壊が相次ぐなど、その効果ははかばかしくなく、城攻めは小田原城の落城以後まで長期化することになりました。この不手際の責任はしばしば石田三成のみに帰せられますが、水攻め自体が秀吉の指示であったとも言われますし、三成の陣には智謀の将として知られる真田昌幸らも参加しており、まさに「武運拙く」、結果が出せなかっただけのような気がしないでもありません。
 籠城側に目を転じると、この力戦が効いたのか、はたまた城主・成田氏長の娘・甲斐姫が秀吉の側室となりその寵愛を受けたためか、成田氏は後に下野国烏山城主に復帰し、烏山藩を立藩しています。
 一方の忍城は、徳川家康の関東入部に伴い、四男・松平忠吉や譜代である阿部氏など、将軍家にゆかりの深い大名が入れられ、明治まで存続しました。

■浮き城も今は昔

 私が現地に到着した直後は、忍城址を拠点に活動している忍城おもてなし甲冑隊が記念撮影会を行っている真っ最中でした。私は、小説も読んでなければ映画も見ていないので、成田氏の関係者と言えば甲斐姫ぐらいしか知らないので、誰が誰だかわ分からず、撮影会を横目に見ながらの城内見学となりました。
 忍城はわりあいに有名ではありますが、史跡・城跡としては地味な城です。城跡の一画には郷土博物館が建てられており、再建建物である御三階櫓は、この博物館の一部として、見た目が完全に近代建築の資料館と棟続きになっています。残念ながら、城の故地は、市の公共施設を作るのに好都合な土地だったようで、資料館が建つ前には野球場などにされていたことがあり、その工事の際に戦国時代の地層面まで根こそぎ掘り返してしまったため、もはや何の考古資料も残されていない状態なのだそうです。一部に石垣の意思が展示されていますが、石積みではなく、あくまで部材として使用された石が城内に置かれているだけです。そうした流れからか、城跡として整備されている区画も、資料館を初め、やけに近代的な整備工事が施されています。
 浮城とまで言われた沼地の城ですが、現在の城跡周辺はすっかり普通の地方都市となっており、沼地の面影すら残されていません。近くにあるその名も水城公園周辺には、辛うじて大きな水場が残っており、そこが唯一昔の雰囲気をとどめているのかもしれませんが、水城公園は忍城そのものとはあまり関係がないようです。
 なお、史跡としては水攻めを目論んだ三成の築いた石田堤の方がそれらしいのものと言えそうですが、現存している場所まで、忍城からはかなり距離があります。

(2013年04月12日 初掲)



























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