夢のまた夢。天下人豊臣秀吉の城。
大坂城
所在地
別名
大阪府大阪市中央区大阪城
:錦城
築城者
築城年
:豊臣秀吉
:天正11年(1583)


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■石山本願寺

 大坂城は、低平地の広がる大阪平野の中でも一段高い土地に建っています。この付近はもともと低湿地が多かったのですが、半面で淀川や大和川といった河川の水運を握るのにも好適の地でした。大坂城のある洪積台地周辺は昔から居住性も良かったため、幾度か時の権力者の居所が造営されています。
 明応5年(1496)には本願寺第8世門主であった蓮如が、隠居の形で台地の北端にあたる石山の地に石山御坊を建立しました。そしてその後の天文元年(1532)、同じく蓮如が山科に造営した山科本願寺が細川晴元らの謀略によって焼き討ちに合うと、第10世証如は石山御坊へと移りました。これが、石山本願寺の始まりです。
 山科本願寺もそうでしたが、石山御坊=石山本願寺は宗教施設としての大伽藍を持ちながら、その周りは塀や堀によって防備される物々しい建造物で、その堅固な守りはさながら「仏法の城」でした。本願寺および一向一揆と激しい戦いを続けた織田信長も石山の城には予想外の苦戦を強いられています。苦心惨憺の末に、第11世・顕如を紀伊国鷺森に退去させると、その後には池田信輝を置きました。信長の城というと安土城が有名ですが、信長は安土城の次には石山に城を築こうと考えていたなどとも言われています。
 
  信長は結局本能寺の変に倒れ、石山築城の計画が現実のものになることはありませんでした。しかしその信長の死後の天正11年(1583)、明智光秀・柴田勝家といったライバルを倒し、天下をほぼ手中に収めた羽柴秀吉が石山に城を築き始めました。天下人の城・大坂城です。信長にせよ秀吉にせよ、京に近く、前述の水運により国際交易にも有利で、かつ南にある堺の町の富を掌握するのに有利という大坂の地利に注目していた事は間違いなさそうです。
 

■秀吉の大坂城

 秀吉による工事の完成には、3年半の歳月を要しました。記録によれば大坂城は、かつて日本で最大の城と言われた信長の安土城を、さらに超える巨大な城だったと言われています。この築城の当時、安土城はすでに焼失していましたし、築城技術は安土桃山期において急速に進歩したため、安土城そのものが日本城郭史全体から見れば極端に巨大な城ではないのですが、記録に残る大坂城は桁外れに大きく、日本史上他に類を見ない壮麗な城だったと言って良いでしょう。
 しかし秀吉は、文禄元年(1592)には伏見城へと移っていきました。その後この城は、大坂役で失われました。後の江戸時代、同じ場所にまた城が再建されていますが、天守や堀などの建造物は秀吉の権威を否定するで秀吉時代のものよりも大きなものが建てられましたが、城全体(縄張り)の規模は以前に比べて小さくなりました。そして徳川時代の城は寛文5年(1665)に落雷で焼失し、現在あるのはコンクリート製の再建天守です。
 現在見られる天守は、外装は豪奢、石垣部分の高さも日本最大級ながら、建物それ自体は意外と小ぢんまりとしたものです。秀吉時代の城の遺構は現在では土中に埋もれており、徳川時代の城はその上に建てられていたのですが、その徳川大坂城が失われた跡地に、豊臣大坂城が復元されているのだそうです。城の内部は博物館になっており、やはり大阪の陣に関する展示が充実しています。屏風絵を解説しながら合戦の様子を伝える展示が印象的でした。
 ちなみに現在では「大阪城」とされるこの城の表記ですが、「大阪市にあるから大阪城」という以上の意味はないようです。大坂と大阪は幕末・維新の頃には様々な場面で併存していたようですが、「大阪市」という市名が決定したのは明治22年のことです。
 

■大坂夏の陣・冬の陣

 この城は、城攻めの名手であった秀吉が心血を注いで築きあげた城だけあって、もっぱら示威のためにだけ存在したと言われる安土城のような、ただ巨大なだけの城ではありませんでした。竣工から約30年、秀吉の死からは20年ほど後、ご存知の通りこの城は、天下の覇権を狙う家康によって攻められていますが、この堅城は、徳川勢の猛攻にあってさえ小揺るぎもしない、鉄壁ぶりを発揮しています。
 そこで家康は、生前の秀吉が自ら語ったこの城の弱点を突く形での攻撃方法を採用します。秀吉が語った方法とは、一つには兵糧攻めだったようですが、家康が選んだのは、策謀によって外堀を埋め、この城を裸城同然にするというものでした。淀殿初め実戦経験に乏しい籠城側は、老獪な家康の策に乗せられ、まんまと外堀を埋められてしまいます。これにより大坂城の防御能力は著しく低下してしまいました。真田幸村(信繁)が築き、徳川方の侵攻に頑強に抵抗したと言う真田丸も、こうなってしまっては大坂城最後のあだ花だったのかもしれません。
 豊臣対徳川の緒戦、大阪冬の陣は、決して豊臣方不利ではなかったのに、淀殿らが家康の講和条件に乗ってしまったのは、大砲のためだとも言われています。城外から飛んでくる大砲の弾が本丸にまで届いて建物を破壊した際、淀殿付きの侍女が、崩れ落ちてきた建材で圧死すると言うことがあったため、実質的な指揮官である淀殿が恐怖した、という話ですが、実際大砲の弾は、木と土で出来た当時の城郭を破壊するに十分な威力を持っていた言います。淀殿以下、籠城兵側ががんばったところで、時間さえかければ、城の建物そのものが大砲の威力で破壊され尽くしていたかもしれません。そうなれば士気の阻喪もはなはだしいでしょうし、結局豊臣方がジリ貧になって敗北していたかもしれません。攻城・築城の名手秀吉も、新兵器の発達にまでは対応しきれず、天下の堅城も四半世紀ほどの間に陳腐化してしまっていたのでしょうか。
 

(2008年03月01日 初掲)





















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